奇跡

使徒言行録9章32~43節

佐々木良子牧師

 聖書には病の癒しや死者を生き返らせること等、多くの奇跡が記されていますが、その最たるものはイエス・キリストの復活です。教会は2000年以上今日に至るまでこのことを伝え続けています。
ペトロが巡回伝道している時、8年間中風の病に苦しんでいたアイネアという人の癒しと、タビタという人の甦りの奇跡が記されています。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい、自分で床を整えなさい…アイネアを見て、主に立ち帰った。」(34~35節)
 「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、ダビタ、起きなさいというと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。…このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。」(40~42節)
 それぞれ行った奇跡は違いますが、その問題において共通することは、力も能力も経験ももはや用をなさない場面だという事です。このような現実はこの世において誰もが経験し避けることのできないもので、神なき世界はこれが全てです。しかし、このような絶望的な只中に手を広げて待っていてくださるお方、イエスキリストがおられることを知っているのがキリスト者です。そして「イエス・キリストがいやしてくださる。」(34節)とありますように、正に誰でもない唯一イエス・キリストがこの私に直接触れてくださる世界が教会で、信仰者はこのような奇跡の世界に招き入れられている人々です。
 信仰生活はこのように奇跡を体験させて頂き、又、見せて頂き、非日常的な繰り返しの中で養われていきます。イエス・キリストが十字架にお架かりになって墓で終わっていたら、教会も存在していなかったし、勿論今の私たちも存在していなかったでしょう。十字架の先にある復活という奇跡、つまり神の救いの業を信じているから教会がこの世に存在、そして今、私たちもこのように教会に身を寄せて頂いています。ですから私たちは週毎の礼拝で十字架と復活の奇跡を見上げて「イエスは主である」(Ⅰコリント12:3)と、再度告白し続けながら信仰を保っているのです。しかし、信仰は迷いのないものではありません。病が長引いたり、又、死と直面するなら信仰は揺らいでいきます。その際、癒されたアイネアを見た時人々が「主に立ち帰った」ように(35節)私たちもいつかご自身のもとに引き寄せて頂けます。