海を通り抜けた先にある祝福

出エジプト14章19~31節

佐々木良子牧師

 イスラエルの民は敵国であるエジプトに連れて行かれ奴隷としての生活を強いられましたが、紅海を渡って脱出する時の出来事が記されています。彼らはシナイ山の方に向かって南東に進んでいましたが、神はわざわざ引返せと命じられました。それは道から反れて海に向かって北東に向かえという事です。彼らの目の前は海で道のない袋小路に追い込まれ、後ろからはエジプト軍が突進してきます。神ご自身がそのような絶体絶命の状況を作られました。
 しかし、逆転劇が起こったのです。「…主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた…水は彼らの右と左に壁のようになった…イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」(21~25節)水が分かれるという事は常識的には不可能と思えますが、不可能を可能にすることがお出来になるのが神です。人間的な常識や経験では想定できないような助けが与えられた時、人は神の御業と納得できます。神は時には理解を超える道・方法・手段を用いて、神の大いなる力による救いを私たちに体験させようとされます。そこには神の目的があります。神のご栄光を現すため、神の憐れみを知るため、更に私たちのために戦って下さる神を知るためです。
 「主があなたがたのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14節)苦境の中にある時ほど私たちは、自分の力を最大限に出して戦い挑もうとしますが、そのような時こそ神の前に沈黙し、神ご自身が戦ってくださることに身を委ねることを神は望んでおられます。
 「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。」(イザヤ43:16)イスラエルの民は神のご臨在の内に確かに救い出されました。私たちも思い返すなら今年も半年が過ぎ、イスラエルの民が経験した出エジプトのような奇跡を経験させて頂いています。聖書には「思い起こせ」という言葉が多く出てきます。それは何となく昔の出来事を思い出すという事ではなく、その中にある神の恵みに感謝して現在の力とすることです。困難と思える海を通り抜けた先には祝福が待っています。その一歩一歩は神の御手の内にあって、その一歩一歩を進めてくださっているのは神です。今一度神の恵みを思い起こし、後半も私たちの信仰をいよいよ確かなものとして歩みたいです。