旅人の歩み
使徒言行録7章17~43節
先週より学ばせて頂いていますステファノの説教の続きで、モーセの120年間の生涯が語られています。誕生(17~22節)、同胞から受け入れられずミディアンの地に逃げ出した40歳代(23~29節)、神からの召命を受けた80歳代(30~35節)が記されており、それは今も生きて働かれる神の歴史とイスラエルの民の罪の歴史といっても良いと思います。モーセに対するイスラエルの民の度々の反逆を通して、イエス・キリストの十字架が示されています。
モーセが神から十戒を授かるためにシナイ山に登っている間、イスラエルの民はモーセがなかなか帰ってこないのを不安になり、アロンに「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください…」と懇願し、雄牛の像を造り、楽しんでいたとあります(39~41節)。自分たちを導いてくださる神を目に見えるものとして祭ることで安心するという不信仰です。42節以下はイスラエルの民が荒れ野の旅路において様々な偶像を拝んだことが記されています。人の歴史は恵みの主を裏切り、結局は自分たちが痛い目に遭うという繰り返しです(42~43節)が、いつも問われているのは「主なる神の約束の御言葉を信じきるか」という事です。
イスラエルの民がモーセにそうであったように、人の歴史もイエス・キリストに対する不従順、無理解、拒絶の連続です。そして私たち人類の歴史でその最たるものが主イエスを不当な裁きによって十字架に架けたことです。しかし、聖書が語る神は「にも拘らず」、私たちに関わり続け救いの道を与えてくださっているお方なのです。
このように旧約の時代からの全人類の取り返しのつかない人生を、どうしても拭いきれない私たちの罪の汚れを救うために、神は御独り子であられる主イエス・キリストを私たちに恵みとして与えてくださいました。モーセはそのことを預言していました(37節)。
この世の無理解を全て受けてくださったイエス・キリストのように、ステファノも今、まさにその道を歩み続け主イエスの証人となって殉教の道を一歩一歩進んでいます。この後命を落とすことになりますが、信仰ゆえの不当な苦しみにあっても、最期まで先だって導いてくださる神を信じ続け証した彼の姿を代々の教会は伝えているのです。