そこで今、もうしあげたい
使徒言行録5章33~42節
「…あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(38~39節)
迫害されても尚、屈しない使徒たちの言動に対して大祭司を初めとするユダヤ人指導者たちの怒りは「殺そう」と、頂点に達していました(33節)。そのような中で後の伝道者パウロの指導者となる人物で、人々から尊敬されている選りすぐりの律法学者であるガマリエルが立ち上がりました。かつてユダヤを混乱させる反乱事件がありましたが、当事者たちは結局、神に裁かれたのだから神に任せるべきだというのです(36~37節)。
神の働きは何ものにも妨げられず、すべて御心のままに果たされます。この神を見せて頂きながら信仰者は歩んでいきます。神を信じない人は自分の感情、欲求に突進しますが、信仰者は神の御心が何であるか問いながら、自分が整えられ正されながら生きていきます。
ガマリエルの提言に対し大祭司たちは、使徒たちを殺すことは避けましたが鞭で打ち、再度福音を語る事を禁じました。にも拘らず使徒たちは「…イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び…メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」(41~42節)と、人は辱められたら悲しみ打ちひしがれるものですが、使徒たちは喜んだのです。勿論肉体的な痛みはあった筈ですが、主イエスの復活の力と、聖霊の力を経験してきている彼らは、その苦しみの最中で自分たちが神の御手の中で生かされていることを悟った事でしょう。主イエスが十字架にお架かりになった時、見捨てて逃げ出した彼らが今、究極の場においてもそこに留まり続け主イエスを証しさせて頂くものとしてそこに存在している自分たちを喜べたのではないでしょうか。
主イエスは弟子たちを世に遣わす時、狼の中に羊を送り出すようなものだと仰せになりました(ルカ10:3)。人は悪の力に対して無力で、弟子たちも狼に対抗するものを何ら持っていませんでした。鞭打たれるままの羊であり続けたからこそ、そこに働く神の力を身を持って証しする事ができたのです。弱い時こそ強いとの如くです。悪にし返しをするなら人はそうやって自分も狼になっていきます。全てが神の御手の中にあることを委ねて人は生きていくのです。