全ての人に与えられた約束

使徒言行録2章36~42節

佐々木良子牧師

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)ペトロが語った初めの説教の結論です。人々は目覚め、これから自分たちはどうしたらよいかと質問しました。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と、答えた所から本日の箇所が始まります。「悔い改め」と「洗礼」について見て参ります。
 「悔い改め」とは、これまでの自分を反省し良い人間になるよう努力することのように思えますが、原語のギリシャ語「メタノイア」とは、本来「判断の筋道を変える・視点を移す」という意味です。そもそも「罪」とは、神の方を向いていないことをいいます。神を避けて、神から遠く離れて生きてきた人が、180度方向転換して、神に立ち帰り神と共に人生を歩き出すことですが悔い改めです。自分を第一としていた者が神に顔を向けていくならば、その時から神の恵みが注がれる人生へと変えられていきます。
 「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くいますうちに・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザヤ55:6~7)四苦八苦しながら自力で生きる私たちを憐れみ、その御許に帰るように招き続けてくださいます。子どもが家に帰るように、私たちは神の元に帰る場所が既に用意されています。いつの日も待っていてくださる神がおられます。これが私たちの励ましであり慰めです。
 「洗礼」とは、これまでの人生を頑張ってもう一度やり直す事ではありません。どんなに頑張っても同じ轍を踏むだけです。悔い改め=神の方向に向きを変え、洗礼を受ける事により罪びとの私ではなくイエス・キリストの命へとまるごと造り変えて頂けます。神の愛と主イエスの十字架が、この私を新しく生まれ変わらせてくださいます。罪の赦しは自分で獲得するものではなく、只、神の恵みにより与えられるものです。今迄の廻りの状況は何一つ変わらなくても、聖霊なる神の働きによって、その人の全存在と生き方、生活そのものの価値感が全く違ってきます。これが全ての人に与えられた恵みで、これに応えた人々が教会を生み出していき(41節)、私たちの今の教会が存在しています。