私は決して動揺しない
使徒言行録2章22~37節
ペトロが最初に語った説教は、神が主イエスを通して私たちにしてくださった救いの出来事です。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(24節)教会の最初の一歩は、主イエスの十字架と復活を宣べ伝える事から始まり、2000年以上経った今も国、時代、年齢を超えて永遠に変わる事のない教会の教えの中心です。世界中の教会で語られている事は倫理・道徳的な教えではなく「福音」、つまり罪人である私たちがイエス・キリストの十字架によって赦され、復活の命に生かされているという救いの言葉です。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)死んでも生きるとは不思議な言葉ですが、主イエスの十字架は私の罪の為と信じる者は罪赦され、肉体が朽ちても天の御国にて、主イエスが甦られたように復活の体を頂いて生きるのです(コリント一15:40)。信仰は信じて平安が与えられた、という単なる心の問題に留まるだけではなく、主イエスの命そのものを頂いており、どのような状況でも決して変わることのない救いの実体そのものです。
主イエスの復活に際してペトロは旧約聖書の詩編16:8~11を引用しています。この詩編はダビデ自身のことを語っていますが、キリストをも預言しています。「わたしはいつも、目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、わたしは決して動揺しない・・・あなたの聖なるものを朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し・・・」どのような苦難があっても永遠に変わる事のない神の約束を信じる者の確信です。ダビデ自身も神と共に生き、神の御前に歩みました。息子であるアブサロムに命を狙われようとも祈りの内に平安を得ました(詩編3篇)。主イエスは十字架にお架かりになる直前、「・・・わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と、最後の祈りをささげ、神の前に立ち続け復活の命を私たちに与えてくださいました。自分の力ではどうにもならない事があるかもしれませんが、この救いに与る者とされていることを喜び感謝できるのです。