立ち上がったペトロ

使徒言行録1章15~26節

佐々木良子牧師

 主イエスの弟子であるペトロやイスカリオテのユダは、主イエスを裏切った者たちです。しかし二人の歩みは、天と地の如くに実に対照的でした。
 「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。120名ほどの人々が一つになっていた」(15節)かつて祈る事ができなかった彼は、主イエスの約束を信じ皆で心合わせて熱心に祈った(14節)後の出来事です。ペトロはイスカリオテのユダの出来事を聖書の言葉の成就として語り、彼に代わる人物の補充のために祈り、くじで選びました(16~26節)。くじは、旧約時代から神の導きと理解された合法的なものです。こうして、ペトロを中心として使徒12人が、主イエスの証人となって立ち上がり、教会が誕生していく事となります。
 一方ユダはというと、悲劇的な最期が記されています(18~20節)。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:30)ユダは主イエスを裏切った直後、外に踏み出したとき、夜でした。闇がすっぽりと彼を包みました。背後にある彼の出てきた灯りのある部屋には、ユダと同じく、弱くつまずき多いペトロを初めとする弟子達が救い主の赦しの光に包まれて座っていました。罪を犯した者がどこに身を置くかという事が、ユダとペトロの違いです。ユダは自ら灯りを捨て、自らの罪の始末をしなければならない暗黒へ踏み込んだのです。自らを孤独へと追い込み転落していきました。カール・バルトという神学者は「・・・地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け・・・」(18節)について述べています。「『まっさかさまに落ちる』とは、彼の人生は逆転し、転倒し落ちる所まで落ちて行く姿を現している。自分から憐みの神に反抗している姿。又、ユダの心の内部崩壊を表し、手から投げ出された手榴弾のように、爆発するほかなくなってしまった。イエスを殺す者は自分自身をも殺すのである。」
 言い換えるならば、主イエスを生かす者は自分自身をも生かすという事が言えると思います。主イエスを生かすとは、罪人全てのために十字架の苦しみを最後までなめ尽くし、罪と滅びから救い出してくださった主イエスの憐みにすがるという事です。自分自身で罪を解決する事はできません。絶望が希望へと逆転するのは、十字架の元に居続ける事、憐みに只、すがり続けていく事です。どんな事があっても神から教会から離れない事が唯一の救いの道です。