生きるにしても、死ぬにしても

ローマの信徒への手紙14章7~12節

佐々木良子牧師

 私達は何と驚くべき恵みの中に生かされていることでしょうか。計り知れない神の愛の中に命があるにも拘らず、自分の事を自分で弁解しながら、人の中で焦りながら生きている愚かな者であることを思わされます。
 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(7~8節)正に「主は与え、主は奪う。」(ヨブ1:21)との如く、神は私達の生と死とを全て支配しておられます。人の生き死には自分の意志ではなく、神がそれぞれに歩む道を与え、それを決定する権威をもっておられます。その根拠は、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9節)とありますように、私達の罪の裁きを身に受ける為に無条件にキリストが死んでくださった事が救いですが、その結果私達は復活の命が与えられ、主イエスのものとして握りしめられ、この拙い命が丸ごと主イエスに捉えられているからです。それはおどしではなく「恵み」によって捉えられ、救いの恵みから逃れる事ができない程の祝福です(詩編139)。
 「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの前に立つのです。」(10節)神に養われて生きている筈の人間が相手より高い所に立ち、裁判官になって人を裁いている、と指摘しています。「人を裁くな・・・自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:1~2)悪を正しく裁く事ができるのは神だけです。裁きは人間の能力を超えているゆえに神に委ねるのです。人は皆、キリストに赦されているだけの人間で、十字架以外に立たせて頂いているものはありません。神が私を生かし養ってくださると同時に、裁いている相手をも神は生かし養ってくださっています。
 全ての人は神の裁きの座において神を褒め称え、そして自分のことについて申し述べる事になると、続いています(11~12節)。神の御前に立った時、裁かれて言い訳をするという事ではなく、こんなに愛され、赦されているのに何故兄弟姉妹を裁いて許せなかったかと恥じ、悔いる時が来ると言います。そして罪人の私を受け止め赦しを得て立たせて頂いていた、という憐みの中にいた事に驚くのです。正にアメージング・グレイスです。生きるにしても死ぬにしても、神の御計画に明け渡して、互いに愛し合いながら歩み続けて行く私達です。