イエス・キリストの復活
マルコによる福音書16章1~8節
イエス・キリストは予告されていたように、十字架にお架かりになった後、3日後に復活されました。しかし、主イエスが復活されたという驚くべき知らせは「信じなかった」「信じなかった」 (11,13節)と、主イエスの弟子たちを初め、当時の人々には喜びどころではありませんでした。むしろ「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」 (8節)と、「正気を失うほどの驚き でした。パウロの時代も同じように信じられない人々が存在していました(コリント一15:12~17)。今の時代も同じ事がいえます。結局、主イエスのご復活は人間の知恵や知識では到底信じられない出来事だという事です。
では、どうしたら信じる事ができるのでしょうか。復活そのものを理性的に納得するのではなく、神の約束を信じるかどうか、信仰の問題といえます。模範となった人物が、信仰の父と言われるアブラハムです(創世記15,17章)。彼は子どもが授かるには不可能な年齢になっていましたが「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:20~21)とあります。疑って当然の時でさえ神の約束を信じ抜き、神は彼を「義」とされました。アブラハムが「義=正しいもの」とされたのは、何か特別なことをしたのではなく「神の約束を信じた」からです。神とアブラハムの関係は神の約束に基づいています。更に「・・・アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:23~25)十字架と復活は、神が私達を愛し続け、罪の赦しを与え続けようとする神の御思いで、その事を信じる事によって正しくない私達を正しい者としてくださる神の約束のしるしです。
そして、復活後に「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(マルコ16:7)と、約束されました。信じる者は死んで終りではなく、天国で主イエスと再会の時を与えてくださると約束されました。主イエスの約束を信じ、復活の命に与りましょう。