イエス・キリストの埋葬
マルコによる福音書15章42~47節
イエス・キリストが十字架刑に架かられた後、人の思いでは計り知る事ができない様々な神の御業が起こりました。キリストの死を通して、人間はいつも理性的な判断によってだけ行動するわけではない事を教えられます。
死刑を執行する責任者であるローマ軍の百人隊長が信仰告白をした事は、誰もが想像もできない出来事でした(39節)。又、本日の箇所においては、主イエスに対する敵意と嘲りがあった中で、身の危険をも顧みず埋葬に拘ったアリマタヤのヨセフという人物の勇気ある行動が記されています。
「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(43節)旧訳聖書のモーセの律法によると、十字架に架けられた死体は、「神に呪われたもの」とあります(申命記21:22~23)。主イエスの十字架刑を、当時は呪われたものと見なされていた中で、自分の墓に入れるなど想像できない事でした。彼の突然の行動は、全人類の救いの為にご自身の全てを投げ出して、その命を注いで死に渡してくださったキリストの恵みによるものと言って良いでしょう。自分の利益・名誉等を顧みず、却って身の危険をも厭わず、感謝して喜んで自分自身を献げた人々の姿が十字架刑の後に記されています。キリストの十字架刑は惨いものですが、主イエスの廻りには、必ずそのようなその恵みに応える、極めて少数の人々が存在していたという事は、現代の私達にとっては何とも慰めであり、又、模範でもあります。
生きるとは自分の計算で、自分が立てた計画に従って生きていくものではなく、神の恵みにどのように応えていくか、私の行為が何に向かってなされているか。どこに顔を向けていくかという事を、主イエスの死、埋葬を通して私達に目覚めを与えてくださいます。
「わたしはまことのぶどうの木・・・わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:1~16)主イエスにつながるとは、主イエスの愛を身に受け続け、その愛にひたすら応えていく事です。ジョン・ウエスレーという人は、「恵みプラス応答は成長に等しい」と語っています。神は絶えず私達を恵んでくださり、私達も絶えず応答できる存在です。周囲がどうであろうと留まることのない恵みに命が保たれ、やむことのない恵みへの応答を目指して行くものでありたいです。