イエス・キリストの死
マルコによる福音書15章33~42節
私達の愛するT姉は昨日、主に結ばれキリストの花嫁として、ご親族初め大勢の教会員が見守る中、賛美をもって天国に送りました。99歳というご高齢にも拘らず召される直前迄礼拝を献げられました。「・・・死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(ヨハネの黙示録2:10)との如く、命の冠を頂いて綺麗な花で飾られての凱旋です。キリスト者の最期は天国への道が開かれ、祝福された新しいスタートでもあります。しかし同時に、キリスト者の命の冠の陰には、イエス・キリストが私達の身代わりとなり、茨の冠をかぶせられた壮絶な孤独の死をつくづく思うものでもあります。
本日の箇所は主イエスが十字架上で息を引き取られる場面です。最期は身を飾る花もなく、散々屈辱を受けられ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(34節)と、暗黒の中(33節)、大声で叫ばれて息を引き取られました。この闇は全人類への神の裁きと呪いの象徴です。しかし同時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(38節)と、罪による暗闇の世界から、神の赦しによる新しい光の世界が開けた象徴でもあります。
この瞬間、死刑を執行する責任者であるローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と(39節)、主イエスを救い主として認める信仰告白をしました。人間的な思いでしたら不可能な出来事でした。当時のイスラエルでは神以外の被造物を神として崇めれば直ちに冒涜罪で処刑されるからです。しかし、彼は十字架上の主イエスを一部始終を目で見て、叫びを聞き続けた結果、神殿の幕が裂けたのを、その目で見たのです。彼の上に神の御業が起こりました。いくら仕事とはいえ、キリストの十字架から目を離さなかった彼の上に神が働かれました。十字架の真実が、神の愛が人の心を動かすのです。
18世紀の初め、私達の教会の信仰の源流ともいえるツィンツェンドルフという人が、ある時十字架上のキリストの絵を見て圧倒され、「我は汝の為に命を捨つ。汝は我がために何を捨てしや」と、涙に咽びてその場に立ち尽くしたそうです。私達は命を捨てられたキリストに、何をもって応えているでしょうか。貰う事ばかり願っていないでしょうか。天の御国に凱旋する迄、霊と真をもって礼拝をお献げする事が、現代に生きる私達の為すべき事です。この身を、時を、財を献げて、命を捨ててくださったキリストにお応えしていきたいです。