十字架は神の力
マルコによる福音書15章16~32節
主イエスが十字架につけられる場面です。十字架刑を宣告された者は、自分ではりつけにされる十字架の横木をかつぎ、刑場迄の道のりを歩かなくてはなりませんでした。しかしこの時、主イエスはご自身で背負いきれない程、弱り果てておられました。そこにシモンという人物が通りかかりこの十字架を背負わされる事となりました。
ボロボロの状態で刑場へ到着した主イエスに、人々はののしり、あざけるのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。・・・今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(31~32節)主イエスは自分を救えないのではなく、敢えて救わなかったのです。この十字架は私達人間に対する神の裁きと呪いですから、降りたら救われる道が閉ざされますから、降りなかったのです。私達の身代わりのために、ご自身を救わないで私達を救ってくださいました。その尊い命をお献げくださり、全人類への愛の限りを注ぎ尽くし、与え尽くしてくださったのが十字架です。人は自分の満足を求めますが、主イエスは最期までご自分の満足をお求めにはなりませんでした。弱りきった最後の力をご自身のためではなく、振り絞って私達に与えてくださいました。そこに変わらない神の真実がこの世に宿り、全ての人がキリストを信じることによって、その真実を体験し、自らもその真実に生きるようにしてくださいました。主イエスは十字架から降りるという奇跡によって、人々を信じさせようとはなさらず、痛ましい「十字架の死」を通して、信じさせようとなさったのです。
この世の人は自分の納得いくやり方で主イエスを信じようとします。こうなったら、ああなったら・・・と。しかし、そうしたらいつまでもイエス・キリストを信じる事は不可能です。通りかかったシモンが担がされた十字架は予定外でした。自分で望まなかった十字架に見えますが、自分が望む所に祝福が準備されているのではなく「どうして?」と思わされるような突然背負わされた十字架が祝福への道へと繋がっていくのです。彼はこの後キリスト者となったと思われます(ローマ16:13)。
人は十字架を背負って生きた分だけその重みを深く知ります。そして、十字架の素晴らしさを体験すると同時に、自分の罪の重さと赦された有難さに感謝できるものとさせて頂けるのです。こうして神の力を知る者となっていきます。