鶏が2度鳴く前に
マルコによる福音書14章66~72節
弟子であるペテロは、主イエスとご一緒なら牢に入って死んでもよい覚悟があると、主イエスへの堅い忠誠を誓っていました。しかし、数時間後「すると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、あなたがたの言っているそんな人は知らないと誓い始める。」(71節)と、主イエスを完全に否定したのです。ここに記されている呪いとは「もし自分が嘘を言っているのであれば、自分は神に呪われてもよい」という強い意志を示す言葉です。現実に主イエスが捕えられ、引かれていくと、忠誠心はアッという間に崩れ去ってしまったのです。
主イエスと3年間弟子として共にし、その愛を身に受け神の御言葉を聞き続けていたペテロでしたが、その信仰は危ういものでした。ではその3年という時は無駄だったのでしょうか。そうではありません。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと、イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」(72節)と、主イエスはペテロが裏切ることを予告しておられました(14:30)。そのような彼を既にご存知でありながらも、弟子として愛し続けてくださった主イエスの愛に触れ、泣き崩れたのです。主イエスの十字架が目前に迫った時に大失敗した彼ですが、3年間共にしている時にその魂には主イエスの愛が刻まれていたのです。自分は愚かで弱くとんでもない人間と知ったと同時に、神の愛の深さを心の底から知って悔んで泣ける人は幸いです。弱さ故に主イエスを否定してしまったペテロを哀れみ、慰めて、信仰者として歩み続けさせてくださるのが、主イエスの真実なる愛です。
人はペテロを愚かと思いますが、私達もそんなものです。しかし、主イエスは後悔し泣き崩れる者のために「・・・わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った・・・」(ルカ22:32)と記されています。ペテロはこの祈りがあったからこそ立ち直り、生涯、主イエスのために命を賭して仕えていく者とさせて頂けたのです。この祈りは私達の為にも途絶えず費えませんし、この私を変えさせてくださいます。
信仰者は自分がどんなに強いか、忍耐強いかを証しするのではありません。幾度となく倒れて信仰を見失う者を、繰り返し引き起こさせてくださる主イエスの祈りに支えられていることを証しさせて頂くのです。誰でも失敗をしますが、そこで泣く者を憐れんでくださるお方がおられる事を指し示していきます。