御心のままに
マルコによる福音書14章32~42節
一般的に祈りとは、神との交わり、神との対話、思いを打ち明ける、時には恥も見栄もなく苦しみをぶつける事ができる時であると考えられています。しかし、目指すべき究極の祈りというものを主イエスは、十字架にお架かりになる直前にその身をもってお示しくださいました。そのお姿は今迄の栄光に満ちたものとは全く違い「汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ44:44)、恐れもだえ、悲しみに包まれた神との格闘のお姿ともいうべきものでした。
「・・・もしできることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。・・・」(35,36節)と、壮絶な祈りです。「この苦しみの時」「この杯」とは、十字架刑のことです。杯とは旧約聖書にて神の怒りと裁きを象徴する言葉でした。本来なら全世界の罪人が受けるべき裁きを、代表として主イエスが引き受けられました。人は十字架刑の痛ましさ、恐ろしさに目を向けがちですが、主イエスは違います。今迄一心同体で共におられた父なる神と断絶されるという、関係が切れる事の恐怖のおののきです。
この恐怖と、神の御心の狭間の葛藤の結果「・・・しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36節)と締めくくられました。自分の願いを神に押し付けるのではなく、祈りの内に自分の心が動かされ、整えられて、神の御心に従わせていくのが究極の祈りであることを教えられます。人はともすると自分の思いが叶うように、神が動いてくださる事に期待しがちですが、自分の思いを神にぶつけつつ、しかし、この私が変えられ、神の御心を知る事ができた時、「立て、行こう。・・・」(42節)、と主イエスの如くに、不安や恐れ、迷い、自分の思いの全てが断ち切られ、毅然と困難に立ち向かっていくようにさせて頂けます。これが祈りの勝利の力です。
「御心のままに」とは、それまでの格闘が必要です。中途半端に終わらせるなら、自我が出てきて、結局、自分にも神に対しても納得できないでしょう。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まし祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)「祈りは日常に打ち込まれた杭である」とある人は言われます。祈らなければ時代に、人に、肉の自分に流されます。弱いから苦しいから祈り続けるのです。祈りの内に日常の自分に杭を入れて頂きながら「御心に」近づきます。