でかけて行くユダ

マルコによる福音書14章12~21節

佐々木良子牧師

 主イエスがいよいよ十字架にお架かりなる前日の過越の食事、最後の晩餐の席で主イエスは裏切りの予告をされました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(18節)そしてわざわざ「・・・わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」(20節)と、つけ加えておられます。日本的に言えば一緒に鍋をつっつくような、極、近く親しい「あなたがたの一人」に裏切られたのです。敵対している者ではなく信頼関係にあった人々です。私達が想像を絶するような屈辱だったと思いますが、揺さぶられる事なく既に準備されていた神の御計画通りに毅然と歩み尽くしてくださった十字架です。
 あなたがたの一人とは直接的にイスカリオテのユダを指していますが、この後、ペテロを初め弟子達が皆、主イエスを裏切る事となりました。それは弟子達に留まらず、この私達も又「あなたがたの一人」に入っていると言わざるを得ません。一人一人の罪の問題です。そうした時「人の子は、聖書に書いてあるとおり、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(21節)とまで仰せになった主イエスのお言葉を私達はどのように受け取ったらよいでしょうか。裏切った私達は生まれてこなければ良かったのでしょうか・・・
 決してそうではありません。神の御心はその罪と悲しみを自分で背負い込む事が決してないように、主イエスを十字架につけられたのです。自分で自分の罪を解決できないどうしようもない私を招き、赦してくださり十字架の元に生きるようにしてくださったのです。悔む者から「生きていてよかった」と、感謝できる者にしてくださったのは只々神の愛です。
 一方ユダは神の深い御心を知ることなく転落していきました。対照的に旧訳聖書に登場するダビデは姦淫と殺人という二重の大罪を犯しましたが、悔い改め神の愛の元に立ち帰った人物です。ユダの如く災いに向かって自ら出かけていく歩みと十字架の赦しに向かって出かけていく道があります。過越の祭り・最後の晩餐の準備の為に全て神が備えていてくださったように(13~16節)、週毎の礼拝において罪の赦しとその恵みに生きるように十字架が備えられています。この招きに与る為にそれぞれの場から日曜日毎に出かけてくるのです。