信じないものではなく
ヨハネによる福音書16章1~8節
信仰が与えられるとは「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と、キリスト者とは主イエスを見ずに信じる者たちであり、聖書に記されている神の御言葉を聞いて信じる者たちの事を指します。イエス・キリストが十字架にお架かりになる迄は、弟子達や多くの人々が直接主イエスに出会う事ができました。しかし信仰告白の如く、復活された主イエスは天に昇り神の右に坐しておられ、主イエスを見て信じる時代は終わり、見ずに信じる幸い、聞いて信じる幸いの時代に生かされています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)
主イエスは復活された日の夕方に、弟子達の前に姿を現されましたがトマスはいませんでした。後で話を聞いた彼は見るだけではなく、この指で手で、主イエスの傷跡に実際に入れてみるまでは信じないと、頑なに疑ったのです(24~25節)。そのような彼を見捨てずに主イエスは再び現れてくださり、「見ずに信じる幸い・聞いて信じる幸い」を、私達にも示しておられます。私達は信頼基準をどこに置いて生活をしているでしょうか。神の御言葉に絶対的な信頼を置いているでしょうか。
神はイスラエルの民が荒れ野を旅していた旧約の時代、神の御言葉に生きるかどうかを試されました。「・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたがたに知らせるためであった。」(申命記8:3)。彼らが空腹の時に神はマナという食物を与えてくださいましたが、単に空腹を満たす為ではありませんでした。日々の糧を明日の分まで必要以上に集めてはならないという条件で、一日毎に必要な分だけ与える約束でした。神の御言葉に信頼するかどうかです。神を疑い不従順な者は必要以上に集め隠し持っていましたが結局は腐ってしまいました。今、目の前にある事実だけを頼るか、目には見えない神の御言葉に信頼して生きるかどうかです。私達人間は神の御言葉によって生きる生活を求められています。
私達は週毎の礼拝において復活の主と出逢い、御言葉によって生かされています。神の御言葉に信頼し従順に生きる時、信仰は確信へと導かれ、確信は多くの誘惑や困難を乗り越えされてくださいます。見ずに信じる者の幸いです。