主イエスの復活
マルコによる福音書16章1~8節
佐々木良子牧師
聖書が伝えたいイエス・キリストの福音は、罪びとである人間への神の愛の表れである主イエスの十字架と復活に尽きるといえます。私達を愛してやまない神の愛の力がイエス・キリストを墓の中から復活させたのです。この事実は死を越えて天国に導いてくださる究極の希望で、主イエスを私の救い主と信じる全ての人へのメッセ―です。ですから福音・グッドニュースなのです。「・・・キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15:14)と、パウロが断言しているように主イエスの復活はキリスト教信仰の根底を支えるものです。
このような最も重要な復活の知らせを託されたのは、主イエスに香油を塗るためにやってきた婦人達でした(1~2節)。彼女たちは主イエスや弟子達の世話役として宣教を陰で支える存在で、これまであまり登場してこなかった人々です(15:41)。当時の社会は女性の立場が認められておらず軽んじられていましたが、敢えて神は用いられたのです。これが神の御心です。
神の福音の伝え方は、いつもこの世で弱い立場でひっそりと生きている人々を用います。主イエスの御降誕の時に、真っ先に出逢ったのは羊飼いでした。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な人を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(Ⅰコリント1:27~28)
そうした彼女達が目にしたのは、既にわきに転がっていた墓の入り口の大きな石でした (4節)。入口を塞ぐ大きな石とは「死」をとじ込めるもので、私達人間は死という現実の前に無力で打ち勝つ事ができない事を示しています。しかし、主イエスは復活を通して大きな石を転がし、死の力を打ち破られました。 主イエスを信じる時、私達はもはや死に閉じ込められることはなくなるのです。
主イエスは、ご自身を見捨てたペトロ達に復活を知らせようとされました(7節)。裏切った彼らは罪悪感に苛まれていたでしょう。主イエスは彼らを審くためではなく、むしろ罪を赦し宣教の業に用いる為に会おうとされたのです。彼らは主イエスが復活され、ガリラヤで迎えられたからこそ、罪の赦しを確信し、福音を力強く証しする事ができたのです。人間の恐れや戸惑いを超えた復活の主イエスは、常に私達の先に先に歩んで手を広げて待っていて下さるお方です。この慰めと希望があるからこそ、私達も失敗しても前を向いて歩めるのです。