我らの本国は天にある

フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節

世の人々は私たちキリスト者の姿を通してキリストを見て、はじめて神を知ることが出来る。しかし私たちの信仰や伝道が常に健全とは限らない。果たしてキリスト者・説教者・牧師・教会の本来「あるべき姿」とは一体何か。
【わたしに倣う者となりなさい】フィリピ教会に侵入した「敵対者」は「キリストの十字架」の完全性を否定し、律法遵守と割礼を要求した。フィリピ教会の人々はこれに応じたが、彼らの行為は滅びに直結する致命的な過ちだった。私たちも、地上に目を奪われるならば、あっという間に神を離れてしまう。すると愚かにも「自分に好都合な歪んだ理想像」を「あるべき姿」と見做し、その酷く手狭な枠中へキリスト者や油注がれた者を神諸共押し込め、枠からはみ出る者を執拗に批判・強要・排除するようになる。しかし高慢な思いは謙虚に悔い改めねばならない。人は地上で完全な者には成れないのである。パウロも自分を完全な者だとは言っていない。むしろ「わたしに倣う者となりなさい」とは8~10節のようなパウロの「生き方、真剣な信仰生活の在り方を見倣って欲しい」との意である。
【わたしたちの本国は天にある】なんと素晴らしい信仰告白の言葉だろう!私たちキリスト者のゴールは天の御国である。私たちはそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待ち焦がれている。何故なら、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる神の力によって、わたしたちの卑しい体を(御国に相応しい霊的な体に)御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるからである。こうして私たちは天の御国へ帰国して父なる神を拝し、遂にこの両眼は救いの完成を見るのである。
【主によってしっかりと立つ】とは「主イエス・キリストに軸足を置き、力一杯踏ん張って主イエスの中に踏み留まる」の意である。聖書や説教や祈りを通して神との交わりの中に生きる時、私たちは神の御前に自分の心と信仰を吟味し、信仰を正すことが出来る。これこそ私たちキリスト者・説教者・牧師・教会の本来「あるべき姿」であり、私たちが救いの完成を見るその日まで、パウロ同様にゴールを目指してひたすら走り続けるために必要不可欠な極意なのである。さあ、主によってしっかりと立ち、パウロの真剣な信仰生活に倣い、救いの完成を見る日まで、天の御国を目指して、ただひたすらに走り続けよう。