その時、人々は見る
マルコによる福音書13章24~28節
すべての歴史には終わり日があります。世の終りとは、主イエスの再臨によってこの世が終わり、神の御支配の完成による新しい世界、神の国が始まるという事です。「・・・このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る・・・」(24節以下)
このように終りの時には、闇に閉ざされますが、主イエスのご栄光が私達を照らしてくださるので、天体の光と輝きは必要なくなるのです(ヨハネの黙示録22:5)。「・・・その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペテロⅡ3;12~13)
再臨の時父なる神は、私達の生前の行状が記されている巻物を主イエスに渡され、全世界の人々を審かれます(ダニエル書7章)。これが所謂、最後の審判で、使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白している如くです。しかし、同時に救いの完成の希望の時なのです。
世の終りには、自力で神の元に集まるのではなく、主イエスによって「集めて頂く」のです。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(27節)私達は様々な不安の中にいますが、復活、永遠の命を携えて主イエスが、再びおいでくださり、救いを完成してくださる希望の中にもあります。そして、いよいよ最後に人々を呼び集めてくださるという、最初から最後まで、主イエスの恵みに生かされ、導かれ、選ばれている者として存在している私達です。
主イエスは何度も御自身を「見なさい」促しておられます。今は肉眼では見る事ができませんから、心の眼で「霊的な目」で見ています。やがて今の時代は終わり、主イエスの栄光だけが輝く時、肉眼ではっきりと主イエスをこの目で見るようになります。ここにこそキリスト者の究極の希望です。見ずに信じてきた事が、確かなものであったことを確認する時がやってきます。神にずっと愛されていた自分、しかも、十字架の愛で愛されていた自分というものが分かって、大きな喜びに包まれるのでしょう。この目ではっきりと見る時を待ち臨みつつ、今は霊的な目で主イエスを見続けていく私達です。