見るべきもの
マルコによる福音書13章1~4節
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら・・・」(ヘブライ12:2)信仰者とは主イエスから目を離さずに歩むものですが、現実はというと、何と目に見える物に心を奪われている事が多いのではないでしょうか・・・見るべきものは何か、という事がいつも問われています。
弟子の一人は、目の前にある神殿に用いられた見事な美しい石に心を奪われ、感動に浸っていました(1節)。しかし今は素晴らしくそびえ立つこの神殿も、この時から40年後、ローマ軍によって見るも無残な姿となって崩壊しました。主イエスはその事を預言されています(2節)。しかし、それは単なる預言ではありませんでした。「あなたがたがこの山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)と、エルサレムの神殿は崩壊したことにより、どこででも神を礼拝する新しい時代が到来する事を示しておられます。エルサレムの神殿では、罪の為の犠牲が捧げられる事によって人々は神を礼拝する事が許されていました。この後、主イエスがただ一度、私達の罪の為の犠牲として十字架に架かってくださった事により、いつでもどこでも、霊と真をもって神を礼拝することが可能になったのです。
弟子達は尚、神殿がいつ、どのように崩れるかについて不安になっています。(4節)きっと私達もどこまでいっても目に見える事に執着する事でしょう。しかし、見えるものに心を奪われて惑わされることなく、十字架に架かられ、復活され、天に昇られ、今も聖霊を通して私達と共にいてくださる主イエスを見つめていけば、それで十分です。パウロは語っています「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリント4:18)
今や私達が神を無視しようとも、主イエスを十字架の死から救ってくださった神が必ず私達を救ってくださる、という神の揺るがない御心を見つめさせて頂けるのです。私達は立派な信仰など持っていません。祈り悔い改めても又、元に戻り、意志が弱く情けない自分である事を良く知っています。だから、もうダメではないのです。「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)神に近づく時神は私達に近づいて下さり、共におられる主イエスを見つめていけるのです。これこそ祝福の基です。