ベツレヘムの星
クリスマス礼拝
マタイによる福音書2章1~12節
「神は、その独り子を与えになったほどに、世を愛された。・・・」(ヨハネ3:16)クリスマスの出来事を端的に言い表しています。全ての人々の罪を、死から救い出すために、神の最愛なる独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。神の変わらない永遠の愛を、神ご自身の全ての全てを、イエス・キリストを通して与えてくださったのが、クリスマスです。
しかし、このように与えられた素晴らしい喜びにこの世の人々は無関心でした。それどころかそれぞれの理由は違いますが、ヘロデ大王、エルサレムの人々は恐れていました。一方、ベツレヘムに住民登録に来ていた人々は、飼い葉桶の幼な子イエスに誰も目を向ける事なく、宿屋の中で共に賑やかに過ごしていました。共通する事は誰もが皆、自分の事に精一杯で神の方に心を向ける事をしようとはしませんでした。いつの世も同じです。
そのような中で占星術の学者たちは、旧約時代の神の約束を信じて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)、と東の国から星を頼りにはるばるやってきて、主イエスの御誕生を心から喜び祝いました。旅するに当たり自分の都合もあったでしょう。しかし、自分達に与えられた救い主に心からお逢いしたいという一心で星を頼りに暗闇に飛び出たのです。旧訳聖書に登場するアブラハムに神は「主は外に連れ出して言われた・・・」(創世記15:5)と、暗闇へ連れ出し星を数えさせました。
私たちもベツレヘムの星=神が見せてくださる喜びが既に与えられています。それは人と群れている明るい中心部分ではなく、暗闇の中へ、外へ外へと人と反対方向に向かっていく旅路です。神と出逢うという事は、ある意味で人と足並み揃える事ではありません。今、暗闇の中を一人孤独に歩いておられる方もいると思います。しかし、現実がどんなに暗く恐れや不安があろうとも、その先には救い主イエス・キリストが同じ暗闇の中で待っておられます。その為に大勢の人がいる暖かな明るい宿屋の中で誕生されたのではなく、誰にも顧みられない飼い葉桶にお生まれになりました。長い人生の中でともするとベツレヘムの星を見失う時もあると思いますが、おいやられた所で神の愛の結晶である主イエスがおられから生きていけるのです。それがクリスマスの約束です。