クリスマスを待ち臨む
イザヤ書59章12~21節
イスラエルの民は神に背き続けた結果、敵国バビロニアに滅ぼされ連れ去られてしまいました。やっとの思いで帰還した人々が神殿を再建しようとしますが、エルサレムは廃墟となり、嘆きだけがそこにありました。光を求めれば求めるほど現実の暗闇が浮き彫りにされ、見えるのは閉ざされた世界で「何故こんな世界に・・・」と、闇に閉ざされている現実に怒りと苛立ちの声が渦巻いていました(9,11節)。
しかし、そのような嘆きの内にこの暗闇は誰のせいでもなく、自分達の罪であった事を示されたのです。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く・・・わたしたちは自分の咎を知っている。・・・主に対して偽り背き・・・」(12~15節)と、神に背いて歩み続けた自分達を知り、嘆きから神に対して祈る者と変えられていきました。このように神と向き合った時に人は変えられていきます。エルサレムの廃墟は、神に背き続けてきた自分達が神に立ち帰り悔い改める為であったと気づかされ、神側に身を寄せる者へと変えられていきました。人が神の御前に出る事、これこそが神が望んでおられる事です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば・・・」(ヨハネの黙示録4:20)と、神は今も私たちを待ち続けておられます。
神との関係の破れについて人間側は嘆くしか為す術はありません。しかし嘆きがあるからこそ人は神に赦しを乞い、救いの道を御手に委ねざるを得ません。その時に神が行動を起こされます。「主は人ひとりいないのを見、執成す人がいないのを驚かれた」(16節)「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。」(20節) それは、一時的な神の憐れみではなく神側からの永遠の契約です。「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。・・・今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる」(21節)無力で自分では何もできないと嘆いている人間の元に救いの契約が与えられています。嘆きの内にあるからこそ救ってくださる神に依り頼むだけです。条件があるとしたら「悔いる者のもとにくる」と主が言われるごとくです。
罪との関係はいつも、神の前に神との関係の悔い改めです。ダビデ王は大罪を犯しましたが預言者ナタンに指摘され、「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(詩編51:5)その破れを全て神の御前に差し出し悔い改め、神に執成されながらその後の人生を歩み直し、神に仕えていきました。
今、私たちはアドベントを迎えていますが、クリスマスは神がこの世に救い主イエス・キリストを送ってくださったという決定的な行動を起こされた出来事です。神と人との間に執成すことのできる正しい人が一人もいないこの世界を憐れみ、救ってくださいました。今年も暗闇の中で罪を悔いる者の元に、光輝く主イエスがおいでになります。