御手の中で
申命記33章1~3節
「人生は中断の連続である。」とある人は言います。しかし、又、ある人は「思うようにならぬ故の感謝」とも言います。「世の人はしばしば嘆じていう、世の中のことは思うようにならぬものだと。しかし、私は思うようにならないが故に感謝したく思う。」人の一生は思うようになるのではなく、神の御心がなされていると信じるから平安の内に生き、更に湧き踊る勇気が出て来る。神の御手の中に乗せられている私達は何の恐れもためらいもない、と結論付けています。旧約聖書に登場するモーセは、正にそのような人生を全うした人と言えます。彼は神の御手の中にある事を確信して人生を生き抜き、更に人間が生きている時も死んだ時も神との交わりの中にある事を確信して天に帰りました。
イスラエルの指導者として彼の歩みは、時には仲間から裏切られたり、苦難の連続の生涯で、その上神からの約束の祝福の地に入る事もできませんでした。しかし臨終に際し過去を嘆くのではなく神への信頼と感謝をもって、イスラエルの民に対して祝福の言葉を残して天に帰りました。「主はシナイより来たり、セイルから人々の上に輝き昇り、パランの山から顕現される・・あなたは民らを慈しみ、すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。」(2~3節) モーセはその遺言の中に、自分が去るにあたってイスラエルの祝福を伝えました。主なる神がこられるということ、主がその民を愛され、全て聖別された者が主の御手の中にあると事を伝えました。全ての者が主の足元に座って教えを受け、御言葉を聞き、生かされる恵みです。
「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう・・・天に昇ろうとも、あなたはそこにいまし・・・曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにいまし・・・右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139:7~8)太陽の光がどれほど強く遠く届こうとも、神の御手はそこにもあるし、神の導きはそれをもしのぐ強さで確かにあると、詩人は告白しています。神の偉大な救いと恵みの現実の中に私達も置かれています。
人間の死に様は生き様と言われています。モーセはこのようにこの世から天の御国に、続く神の御臨在を信じ感謝をもってその人生を閉じました。モーセの如くに、神の定められた人生を忠実に歩み、天まで続く神の御手のぬくもりを喜びながらこの世を閉じ、後世に祝福を残せたら幸いです。