二人は一体となる

マルコによる福音書10章1~12節

 結婚・離婚は古の昔から人の人生を大きく分ける重要な事柄です。人はまず自分の思いを中心とし、又、社会的な法律ではどう取り扱っているのか、と、人間中心に考えるものです。しかし、神を知っている私達が問うべき事は、神との関係で聖書はどのように語っておられるかです。信仰をもって受け止められる事が祝福と恵みの基となり、人の歩を大きく分ける事となります。
 主イエスは結婚・離婚について、旧約聖書から明言しておられます。その発端は律法学者達の離婚に対する質問からでした(2節)。男尊女卑の古代社会は、夫達の身勝手な振る舞いが公然と認められるような状況でした。その事を踏まえて彼らの論争の根本は、夫のわがままの許容度に対する問題を議論していました。そこで主イエスは申命記24章1~4節の解釈について問われたのです(3節)。自分の欲望を遂げるため、都合の良いように拡大解釈し、曲解して利用しようとする者に対して厳しく告発しておられます(5節)。神は基本的には離婚を勧めてはおりませんが(9節)、モーセの律法は古代に離婚せざるを得ない境遇に泣く弱い立場にある人々を保護する掟でした。
 律法を問題にしている彼らに対して、主イエスは結婚に対する神の御意志に目を向けておられます。「彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)助ける者とは原語で「向き合う」という意味です。神を通して向き合うものとして神が結び合されました。「・・・二人はもはや別々ではなく、一体である」(創世記2:24)結婚は感情や自分達の意志を実現するためのものではなく、神が結び合せてくださり、一体となるのです。農夫が2頭の動物を一つの軛に結び合せその畑を耕作するように、神は一人の男と女とを結び合せ、神の御心を実現させるためにお用いになり、創造の喜びの中に入れてくださいました。結婚は神によって二人が軛につけられたようなものですが、そこに神の御意志があります。
 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(エフェソ5:15)賢い者とは、感情や好みではなく信仰の眼をもって歩む生き方です。「主の御心が何であるかを悟りなさい」と繰り返し勧めています。神は永遠に変わる事のないお方です。私達罪人への愛を限りなく注ぎ出してくださいました。変わらない真実の中で信仰に満たされて夫に妻に隣人に向き合いながら生きて行ける私達です。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」信仰によってこそ向き合っていける恵みに感謝です。