誰が一番偉いのか

マルコによる福音書9章33~37節

主イエスはご自身が十字架にお架かりなる事を3度予告されましたが、本日の箇所は2度目の予告の直後の出来事です。十字架上の死が、いよいよ迫っていましたが、弟子達は依然として「だれが一番えらいかと議論していた」(34節)とあります。主イエスに従う歩みにおいても他者と比較し、名誉欲に支配されるような弟子達でした。「死ぬときは何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓にくだるわけでもない」(詩編49:18)とも記されていますが、弟子のみならず名誉欲は人間の常であり弱さでもあります。
 弟子達は主イエスに「仕える」ことによって、自分達の栄誉を求めていました。一生懸命尽くせば何らかの見返りを期待できる権力者に仕える事は容易な事と言えます。一方、自分に何らかの利益を与える事ができないような権力とは無関係のこの世でいう弱い立場の人に対して、仕える事は簡単な事ではありません。そこで主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい・・・わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(35~36節)と、子どもを例に挙げて教えられました。子どもはこの世に何の力も持たないどころか、守らなければならない弱い立場にあります。そこで仕えるとは、最も値無き小さき者、見返りや栄誉を求めない行為こそが「仕える」事だと教えております。
 「僕になりなさい」とマタイ福音書には記されていますが、単なる謙遜の美徳を奨励しているのではありません。主イエスご自身が身を持って示されたのが、十字架にお架かりになる前日に弟子達の足を洗ってくださった行為です。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)身に着けるべき謙遜とは、名誉を捨て仕えられるためではなく、仕えるために来られた主イエス・キリストに倣って全ての人に仕える事です。
 謙遜さを身に着けるには、人と比較するような歩みではなく、主イエスと私の比較から始める事です。行い、考え、ひいては私の歩んできた人生そのものを主イエスと比較するなら、自分の愚かさ、罪しか見えず恥ずかしい事ばかりです。そうした時、恥ずかしい私を一切咎める事なく、黙って十字架にお架かりになって救ってくださった神の愛を知る事になります。神の愛を受けとった人は、栄誉を求めず心から喜んで全ての人にお仕えさせて頂けるのです。