母に背負われて、神に背負われる
イザヤ書63章8~11節
神と人間の関係について記されています。「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」(9節)母親が子どもを背負い抱っこするように、人は昔から神に背負われ、抱かれて人生を歩んでいます。誰もが母親に、そして神に抱かれ背負われて人生が始まります。
「御前に仕える御使い」とは、原文では「彼の顔の使い」と記されており、単にご自分の代理として御使いを送ったというのではなく、主がご自身の憐れみの御顔を向けておられるという事が強調されています。母親は子どもが苦しむ時、自分の苦しみとして痛いほど分かります。そのように私達の苦しみを神はご自身の苦しみとして担ってくださいますから、神と私達は一つであり、人格は一体です。しかも時々ではなく、いつも「あなたのその痛みを理解しているよ」と慈しんでくださっております。ですから私達はこの世で多くの悩み、苦しみがあっても、支えられ慰められて生きていけるのです。
「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。」(10節)神の愛に支えられているにも拘らず、イスラエルの民は幾度も神を裏切り反逆し、その結果バビロン捕囚という報いを受けました。自分勝手に神から離れ、罪に苦しんだ挙句に「神はどこにおられるのか」と、何度も問うています(11節)。これは私達人間の身勝手な姿でもあります。にも拘わらず、背く私達を限りない愛をもって神の子としてくださり、今も変わらずに何度も背負い直し、憐れんでくださっております。(8~9,16節)
「…わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)神は人間を愛の対象として造ってくださった故に、私達が慈しみをすぐに忘れ、大きな顔をしたり、落ち込んだりしても天の御国に帰るまで、責任をもって任ってくださいます。これが永遠に変わる事のない神の約束です。
「…事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(へブル2:17~18)共に苦しんでくださる神の究極的な表現は、イエス・キリストが人となってこの世においでくださった事と十字架上のキリストのお姿です。この十字架にこそ、私達の究極の慰めと励ましがあり、背負われている事を実感するのです。