キリストの十字架への道
マルコによる福音書15章33~40節
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)神に見捨てられる筈のない神の御子イエスが、見捨てられる直前の絶望と苦しみの叫びです。神というお方について私達が知る事ができるのは、壮絶なキリストの十字架を通してしかありませんでした。
神だから余裕があって主イエスを十字架に架けられたのではなく、断腸の思いで主イエスと共に耐え難い苦しみを伴っていたのです。キリストの十字架が示すのは、罪びとを救い出したいという痛みを伴った神の愛、神の御心です。
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(33節)この暗闇は全人類が神に背いた罪の暗闇で、その絶望が主イエスの壮絶な叫びとなったのです。これは主イエス御自身の恐怖と、私達自身の恐怖の二つの叫びです。主イエスご自身が地獄へ落とされる事への恐怖ではなく、神から見捨てられ、神との関係が切れる事のへの恐怖です。私達が体験しなくてはならない恐怖、絶望を背負って引き受けご自分のものとして体験してくださいました。その苦しみの中で死なれたのです。その直後に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)と記されています。垂れ幕とは人間の罪の為に隔てられていた壁ですが(レビ記16章)、十字架の死によって罪が赦されて、神の御前に出る事が赦され、暗闇から永遠の祝福の新しい世界に私達が招き入れられた、という歴史的な大展開が成し遂げられたのです。
このように神の愛と神の御心と共に神のお苦しみを知っているにも拘らず、依然として様々な問題の中で襲ってくる苦しみから逃れたいと思う私達ではないでしょうか。苦しみの過程が省略されて、思い通りに幸せな人生を歩む事を最優先するような、良い結果だけを手に入れようとする世界に生きているように思えます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)パウロという人物は主イエスを伝える為に、今迄の地位など一切を失いましたが、キリストの十字架の苦しみに与りたいとまで語っています。労苦を買って出る必要もありませんが、キリストは神の御子でありながら、私達を愛する故に、十字架の苦しみを放棄されませんでした。今、自分達に与えられた苦しみから逃げ出したり放棄しないで歩む為に、キリスト・イエスを知る事を追い求めていくことが私達に与えられています。十字架上のキリストがいつも共にいてくださいます。