わたしは何者だ
マルコによる福音書8章27~38節
ペトロは主イエスに対して「あなたはメシアです。」(29節)と、完璧な信仰告白をしました。他の弟子達は、主イエスを人間レベルの英雄としか認識していませんでしたが(28節)、彼は主イエスをキリスト=救い主、生きておられる神の御子だと、心から称えたのです。しかし、その舌先渇かぬ内に、主イエスの御思いとペテロの思いは致命的にかけ離れ「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)と、主イエスから驚くほどの厳しい叱責を受けたのです。
事の始まりは、主イエスがこれからのご自身の御受難を、予告された事からでした。「…人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている…」(31節)主イエスの死と復活を耳にした途端にペトロは、神を称える心は瞬間に消え失せ、自分を守る事に走ったのです。主イエスはそこに「サタンの思い」を見てとられたのです。「サタンの思い=悪魔的な思い」とは、主イエスの十字架の御業を妨げようとする思い、自己中心的な思いです。ペトロのように神の事を思わず、人間のこと、自分の事を思っているとしたら、それはサタンの思うままに支配されていく破滅の道以外何ものでもないという事を心しなければなりません。
そこで主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と仰せられました。ここで強調されていることは、「従う」こと、しかもそれは「イエスの後に従う」ことです。「サタン、引き下がれ」と言われた「引き下がる」という言葉は「後に回る」という意味です。主イエスの前にでしゃばって進むこと、それは主イエスの思いに従うのではなく、自分の思いを主イエスの前において歩むことで、これが私達人間の根源的な罪です。
「主イエスの後に従っていく」生涯は、死で終わらない、復活に与る道です。従う道は、人を牛耳るものではなく主イエスの十字架と復活の大いなる御業のお陰で、主の後に従うすべての人に罪の赦しと死に勝利された復活の命が約束されている希望の道であり、希望の招きです。私の思いが「キリストの思い」キリストの心に与っていけるのか、それとも「人のこと」を思うか。これは、命か死か、祝福か呪いかほどの致命的な違いです。「あなたはメシアです」と告白しつつ、主イエスの後に従う者には、祝福の道が既に目の前に開けています。