何に従うのか
マルコによる福音書7章1~13節
主イエスの元にやって来ても、主イエスを見上げるのではなく、そこに居る人々に心を囚われているファリサイ派、律法学者の人々の様子が記されています。彼らは神の御心に生きたいと神に目を向けていた筈ですが、いつのまにか人の言葉に従い、人の評価を求めるような歩みをしていました(1~5節)。
自らを信仰深く歩んでいると信じていますが実は神から遠く離れ、神と自分をすり替え、果ては神を冒涜するような危うい存在となっていたのです(6~13節)。神に信頼して導かれるなら豊かな歩み保証されているにも拘らず、神の掟である律法を完全に守る事に必死になり、新たに人間が作った「人間の言い伝え」(9節)に従い、人の言葉と自分の力に頼っていたのです。
私たち罪びとは、律法を完全に守る事ができない故に、神の愛と憐れみによって、主イエスが私たちの罪の代わりに十字架に架かってくださいました。神を信じる者は律法の束縛から解かれ、神の御手の中で喜びと恵みに生きる事を赦されるようになりました。「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」(ガラテヤ3:24)、律法は人を裁く事が目的ではなく、神の掟を知る導き手であり、正しくない自分を知って神の元に赦しを乞うためのものです。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(ガラテヤ2:16)人は良い行いによって罪を赦されるのではなく、主イエスを信じる事によって罪赦され、永遠の命の祝福へと導かれる恵みを与えられるのです。しかし彼らは神にお委ねするのではなく、自らの力で正しく生きようと自らを律法で縛り、自分や廻りの人々を苦しめるという本末転倒な生き方になっていました。
「ユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え・・・導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか・・・あなたは・・・神を侮っている」(ローマ2:17~23)キリスト者として、主イエスの福音を人に伝える一方で、現実の生活はその教えに伴っていないと、実に耳の痛い話です。これは私たちにも向けられている言葉だと思います。神のお言葉に従っている自分を誇り、素直に神の恵みに感謝できず、福音を喜ぶ事ができない愚かな者になっていないか、自分に問いかけたいです。