満ち足りる事を知る
テモテへの手紙一 6章6~10節
当時の教会の中には神を信じていると言いながら信仰に生きておらず、自分の富を求め、何かというと争いや口論が絶えませんでした(3~5節)。
そこでパウロは「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことはできないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(7~8節)と、教えています。人が生きていくにはお金は必要ですが、金銭欲は罪を犯すのです(9~10節)。
人間の心はそもそも自分で満たされるものではなく、信仰こそ私達の心を満たすものです。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)神が基準になるなら、日々の生活は感謝に溢れ神を賛美する者とさせて頂けますが、自分を基準とするなら常に不満を抱えながら虚しいものを求め続け、知らない内に罪を犯していきます。神を信じる生活があって、それによって満ちたりる知る事を知っている人こそ本当の幸いな人です。
私達の目にするものは足りないものや、自分の思いとは違う状況ばかりです。しかし、見えている目の前のもの全てを神が与えてくださったものとして受け取るならば、足りないと思っていた中にキラリと光る神の豊かさと恵みを必ず見出す事ができます。信仰なき目は足りないものしか見えないものです。
私達は裸で生まれてきたのですから、今あるものは全て神から与えられたものです。同じものでも満足して感謝できる人とできない人がいますが、その違いは善きことも悪しきことも、全て神から与えられた事として受け取る事ができるか否かです。神は古の昔から「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申命記8:10)とも語っておられます。
旧約聖書に登場するダビデ王は「わたしなど果たして何者なのでしょう・・・すべてはあなたからいただいたもの・・・御手から受け取って、差し出したにすぎません」(Ⅰ歴代誌29:14)神殿を建てる事を生涯の望みとしていながら、叶わなかったダビデが神殿建設の大任を担うソロモンの為に財源を準備します。それを前にして自分は何ものでもなく、整えてくださったのは神であると心から神を崇めて感謝を献げています。自分の思い描いていた人生とは違う状況であっても、人間的には不満足であったとしても、神を信じ今を受け入れる人は、満ち足りる事を知り、感謝と遜った者とさせて頂ける事は幸いです。