門をくぐるだけ
ヨハネによる福音書10章7~10節
「はっきり言っておく、わたしは羊の門である。」(7節)と、主イエスはご自身の事を門である、と宣言しております。その門とは「命の根源の門」を表わしており、門の内側には新しい命、キリストにある永遠の命が用意されています。そこで私達が真の救いを得る為です。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(9節)救いとは「罪・滅び」からの救いです。「真の命を得る為にこの門をくぐって来なさい」という愛の招きのお言葉です。
罪人である私達は確実に誰でも死を迎えます。聖書はことごとく私達に罪の宣告=死の宣告をしております。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)神は私達を脅しておけば、まともな人間になるだろう、又は、死は仕方ないから受け止めなさい、という思いで死の宣告をしたのではありません。親が平常心で子供に死の宣告をできるでしょうか。断腸の思いで、身が引き裂かれる思いで、最後まで望みを失わないのが親の愛です。神の御思いも同じです。
「まことに主はイスラエルの家に言われる。わたしを求めて生きよ」」(アモス書5:4)と、旧約聖書のアモス書には、何度も何度も「生きよ」「生きよ」と、神の御心が示されています。神は私達を拒絶されるのではなく、主イエスという門を通って「生きよ、永遠の命を得て生きよ」と、身を切られる思いで叫んでおられます。門は城壁ではありません。門は、罪の世界に閉ざされておらず、開かれています。
「・・・わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10~11節)罪という壁で隔てられていた神との断絶を、主イエス御自身が命を捨てられて、十字架に架かって私達の為に死んでくださった事により、イエス・キリストと呼ばれる門が復活の朝開かれて、全ての人が救われるようになりました。復活以来、キリストの門はこの世に対して開かれています。それは、キリストの御身体なる教会としてあらゆる国々の人々に向かって開かれています。
この世では様々な闘いがあり、狼が襲って来るような事もありますが、自分で闘うのではなく、この門をくぐって逃げ込めば良いのです。キリストの門を通って永遠の命を頂きながら、試練に打ち勝つ平安、憎しみに打ち勝つ神の愛と赦しを豊かに受けて、この世に派遣される私達です。