キリストのいる教会

ルカによる福音書8章22~25節

 教会は古来より「舟」に譬えられてきた。その理由の1つは創世記「ノアの箱舟」であり、もう1つは、弟子と共に舟に乗られた主イエスが突風や嵐を静められたという記事(ルカ8:22-25、マタイ8:23-27、マルコ4:35-41)である。エフェソ1:23には「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と記されているが、弟子たちの乗った舟は様相が違っていた。
●「彼らの舟と心は、獰猛な水で満ち満ちてしまった」
 舟上は元漁師の弟子たちの独壇場となり、主イエスは眠られた。教会運営は操船に等しい。教会を私たちの独壇場とするならば、主は眠られ、曇った霊の目に主の御姿と御業は見えなくなる。そんな時に限って突風が吹き、大波が襲う。マタイとマルコは“【舟】は水でいっぱいになった”、ルカは“【彼ら】は(水で)いっぱいになった”と原語で表現した。教会を取り囲む外界は天災や人災など人心を怯えさせる出来事で満ちている。教会の少子高齢化に将来を危ぶむ声も絶えない。私たちが慢心し、主に依り頼むことを忘れ、世の荒波に自分たちの力で立ち向かうならば、私たちは必ず打ち砕かれ、恐怖で満たされる。
●「先生、先生、滅びつつあります」という「祈り」
 “溺れる”と“滅びる”は同じ単語。しかし、たとえ恐怖のどん底に叩き落とされても諦めてはならない。弟子たちを見よ。「先生、先生、おぼれそうです」とは主への祈りであり、教会の果たすべき大切な役割である。私たちが主イエスに近づき、祈り求める時、主は風と荒波を静め、獰猛な水を生命の水に変えて私たちを潤し、私たちの心と教会に平安をお与え下さることを覚えよう。
●「あなたの信仰はどこにあるのか」
 ルカ8:25の「信仰」は定冠詞付きの「ザ・信仰」。主イエス・キリストに対する特別な信仰を主は私たちに求めておられる。「あなたの信仰はどこにあるのか」。今朝、私たちは主の問いに率直に「主よ、私たちの信仰はあなたの御前にあります。既に世に勝利したあなたが共に居られ、あなたの満ち満ちておられる御教会に、そして私たちの心の内にあります。」と確信を以てお答え出来る者へと変えて頂こう。どうぞ、主を信じ感謝し、祈り求めつつ、輝かしい目的地を目指して勇気を出して、主と共に人生航海を漕ぎ行こう。

在主