キリストの十字架上の苦しみ
ルカによる福音書23章26~31節
主イエスは十字架にお架かりなる時、ご自身が背負われた十字架の重さに押し潰され、体力尽き果てて背負う事ができなくなりました。その重圧はそのまま、私達の罪の大きさである事を痛切に思わされます。
そこでキレネ人のシモンは、主イエスの十字架を無理やり背負わされましたが、抵抗せず従順に十字架を負いました(26節)。彼の負わせられたのは主イエスの十字架でしたが、それは何の罪もない主イエスが、私の罪を引き受けて、苦しみを受けて、死んでくださった十字架である、という事を知るに至ったのです。ここに、信仰者のあるべき姿、主イエスの十字架に対して、私達がどのように応答すべきであるかが語られています。
主イエスは「私に従いなさい」と、幾度も仰せられました。「従う」とは「同じ道を歩む」という意味で、キリストの十字架の足跡を辿る事を示しています。私達自身が主導権を主イエスに明け渡し、主イエスの歩まれた苦しみの道、十字架の道を歩む事です。私達の罪の為に先立ち、苦難の道を歩まれる主イエスの背後につくように招いておられます。神は私達の人生を導き、命を守ってくださる為に、自分の十字架を背負わせて、救いを実現されます。
主イエスが十字架上で無惨に殺される事に嘆き悲しんでいる婦人達に「・・・むしろ、自分と自分のこども達のために泣け・・」(28~29節)と、厳しく戒められました。今、主イエスの為に涙している場合ではなく、やがて自分の罪の為に裁かれた時(21:20~24)、むしろこどもがいなかった方が良かったと嘆くようになるから、今、自分の罪の為に嘆きなさいと言われます。十字架がどのように自分と関わっているかを見つめる事が求められています。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14:27)と、主イエスは仰せられました。弟子という語は「学ぶ者」を意味し、キリストの十字架に学ぶ事です。「自分の十字架」とは、今、抱えている自分の試練や困難を負う事はありません。キリストの十字架は同情するものではなく、又、感謝するに留める事でもなく、自分の罪の深刻さ、そのもたらす結果の恐ろしさを見つめる事です。このように私達の生涯は、徹底的にキリストの十字架の苦しみ=自分の罪と向き合っていく歩みです。十字架の道は死の道ですが、それは永遠の命の道に至る復活の道です。この祝福の命の道を歩ませて頂く為に、自分の十字架を負って歩むのです。