定められた道を歩む

マルコによる福音書3章7~19節

 主イエスがこれまで行われた病の癒しの業を求め、パレスティナのほぼ全域から「おびただしい群衆」が押し寄せてきました(7~10節)。彼らは自分の願いを叶えたいと、まじない師的なご利益宗教を求めていたのです。又、汚れた霊=悪霊・神から私達を離そうとする霊も、群衆と同じように正しく主イエスの事を受け止めていませんでした(11節)。主イエスが与えてくださるのは罪の赦しと永遠の命で、それは福音の中心、恵みの中心で、癒しや奇跡を行う事が本来の目的ではありません。私達は主イエスに何を求めているでしょうか。主イエスの事を理解せず、自分の思いや願いが実現される事しか求めていないなら、これらの群衆と悪霊と同じになってしまいます。
 主イエスはそのような中で福音宣教の使命を果たされる為に、ご自身のお働きを担う為の使徒を任命されました。「そばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(15節)12使徒の名前が記されていますが、それは主イエスの御思いが現れています。ご自分が扱やすい人を選ばれたのではなく、ご自身を裏切るユダや、使徒同志で敵対関係にあった人々、又、後世に名前しか残らないような人々を敢えて選ばれました。「・・人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」(Ⅰコリ1:26)これは教会の姿でもあります。神は才能や力、経験、境遇に拘らず私達を選ばれます。主イエスに従う事によって一つの目的の為に生きる事になり、一つの使徒となっていくのです。「あれが足りない、年が若い、働き盛りで忙しい、もう老年だ」と、様々な理由をつけて「自分なんて・・・」と、思います。しかし、人間はそもそも自分の持っているもので成し遂げる事等できないものです。
 主イエスは私達を12使徒のように、任命して派遣してくださいます。任命とは「造る・創造する」という言葉と同じで、主イエスが私達をそばにおいて訓練され、相応しく造り上げて派遣して下さいます。自分には期待できなくとも、神がどのように整えて用いてくださるか、神に信頼し期待するのです。テニソンという人は「私達の意志は私達のものだが、あなたのものとする為に与えられている」と、語っています。自分の思いを果たす為に主イエスを追いかける生き方から、この私を通して輝かしい神の恵みを伝える為に神の御用に役立てる、それだけで私の存在の意義があります。それが私達の定められた道です。