走り抜ぬいた人々に囲まれて

へブライ人への手紙12章1~13節

 人は誰も死を迎え人生のゴールである天の故郷・天国を目指す競争に参加しているようなものだといいます。その競争とは、罪を犯し神を悲しませる私達を限りなく愛してくださり、イエス・キリストによって罪から救われた者としての闘いです。それは誰も代わる事ができない一人一人に定められた信仰者の競争です。「・・・すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(1節)
 しかし、走っているうちに様々なものに惑わされ、不必要な思い煩いに悩まされながら目標を見失って行き、神なき罪の世界へと引き入れられ、競争を途中で投げ出したり、諦めてしまうようになります。走り抜けられるように重荷や罪をかなぐり捨てなさい、その為にはどのような犠牲も惜しんではならないと主イエスは仰せられます。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。・・・もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取ってしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」(マタイ5:29~30)
 走る力を失い、罪を犯すのはキリストから目を離している時ですから「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら・・・」(2節)ゴールを目指します。人生は目で見続けるものと、心に思う思いによって形づくられていくもので、虚しいものに目を向けていると罪に陥り競争から脱落して行きます。主イエスを仰ぎ見つつ歩む人生は、自ずと心は引き上げられ目標を見失う事なく、罪からきよめられ天の国のゴールへと導かれていきます。
 ゴール迄には困難や苦難を伴いますが、神は実を結ばせるために私達を訓練なさいます。「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(11節)偉大な人は何かを成し遂げる人ではなく、苦難に耐える人です。当座の苦しい今は天国への備えであり、やがての未来を生み出す為の今です。今の苦難はやがての栄光に必ずつながっていきます。栄光を受ける為に神の前から迷子にならないように主イエスを仰ぎ見つつ走り抜いて参りましょう。孤独な闘いではなく既に走り抜いた信仰の先達者が競技中の私達を囲んで声援を送って下さっています。