わたしについて来なさい

マルコによる福音書1章16~20節

 「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(18節)主イエスが宣教に出られた時に最初に目を向けられたのは、日用の糧を得る為に湖で漁をしているシモン達です。私達と同じように普通の日常生活している極、平凡な生活をしている人々に声をかけられ、最初の弟子にされました。弟子として求められているのは、資質や能力等ではなく「ついてきなさい」と仰せられるイエス・キリストの後に従う歩みです。
 「すぐ網を捨てて従った」と続いて記されています。網は漁師にとって不可欠で大切な道具ですが執着する事なく、呼びかけに即座に応えました。彼らは主イエスの招きに応え、「人間をとる漁師にしよう」という約束のお言葉にこれからの人生を神に託しました。生活の為に働く今迄の人生に決別し、神が自分達を用いてくださる、という約束された新しい人生に踏み出しました。神の約束のお言を聞いても、踏み出さなければいつまでも約束で終わり、状況は何も変わらなかったでしょう。信仰に生きるとは、自分は神に呼ぱれ、神の招きに応え続けて生きていくという事です。招きに応え続けられずペトロのように主を裏切ってしまう者でも、網のはころびを繕うように弱さ、破れを繕ってくださる神は、招き続けて用いてくださいます。
 2度目に声をかけられたヤコブやヨハネは父と雇人たちを舟に残して従いました。自分の親やこの世の務めに対して無責任になって山にこもって仙人のような生活をしたのではありません。アブラハムは愛する息子イサクを祭壇に捧げ、一旦は手離しましたが、神は手を下されずにイサクをアブラハムの元に返されました。これまでの血肉の父と息子の関係ではなく、神からの与かりものとしての新しい親子関係として歩みました。血肉で結ばれている古い人間関係を一旦断ち切ったのです。
今の日常生活の延長上にキリスト者としての生活は成り立ちません。キリストに従うという事は、一旦自分の持っている大切な物を断ち切り、捨てる事が伴います。こうして神との新しい関係が築かれていきます。廻りの状況は何も変わりませんが、古いものは過ぎ去り、全てが神との新しい関係の中で歩み始め、主の御用の為に用いられていきます。