キリストにある平和

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 キリストの血による和解について記されていますが、初めにイスラエルの民と異邦人との和解が記されています。イスラエルの民は神から選ばれた民という間違った選民意識・プライドから異邦人を蔑視し、敵意という壁を作っていましたが(11~13節)、十字架によって民族の隔てが取り除かれ、外国人も寄留人の差別もなく聖なる神の家族となって教会を建て上げていく姿が描かれています(14~22節)。
 イスラエルの民のみならず人は「汝と我、神と私」の関係を結ばず、人との関係の中で自分の立場を守ろうと、人と比較しながら壁を作って優位な立ち場を得ようとして、敵を作りながら歩みます。主イエスは、神の律法を必死に守って自らを誇るファリサイ人と、罪を悔い改める徴税人の話をされました。ファリサイ人はプライドを守る為に常に背伸びをして傲慢になり、人との比較の内に壁を作り蔑視していました。徴税人は「神さま、こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と、罪の赦しを願う対照的な姿が描かれています。この二通りの姿が教える事は神との関係で罪の赦しを乞う生き方か、人との関係で自分を正当化するかの違いです。アダムが罪を犯した時、罪を認めず「女が」と、言い訳をし、女は「蛇が」と言い訳しましたように、神と直結できない私達人間です。このように神に対して罪を犯し、神の栄光を受けるに相応しくない者となった人間に対して、神自らが敵意を打ち壊し交わりの回復の和解の道を開いてく為に十字架に架かってくださいました(14~18節)。主イエスが望んでおられる事は、互いの敵意と罪を悔い改めて、和解する事です。主イエスは最後迄ご自分の身を守ろうとせず、不義を甘んじ、奪われるままにその身を差し出して息を引き取られました。私達の傲慢と敵意を打ち砕く為です。徴税人の如く「罪びとの私を憐れんでください」と、傲慢と敵意をキリストの恵みによって打ち砕かれるよう祈り、キリストにある平和を作り出し神の家族とさせて頂きましょう。