9月19日礼拝説教概要

「魅惑の聖化」 詩編51篇9~11節
          テサロニケの信徒への手紙一5章23~24節
 神が願っておられる事は神が聖なる方であるから、私達も聖なる者となり(レビ11:44,45等)霊的に造り変えられ、成熟した信仰者となる事です。伝道者パウロはテサロニケの教会に、心が満たされずいつも不平不満を持っている人々に対して「全く清めてください」と切に祈っています(5:23~24)。又、コリント教会の人々に対して、聖化や成長を求めず、救われる以前と同じ価値観で生きているので、妬みや争いが絶えず、単に肉の人である(Ⅰコリ3:1~4)と、鋭く指摘しています。
 主イエスは弟子達が救われて洗礼を受けた後、そこに留まらず、清められて成熟を目指すように訓練されました。私達も同じようにイエス・キリストの十字架の死によって罪を赦されて神と民とされ、神の前に清い者とされていますが、罪には二重性があり、尚、生まれつきの罪は残っていますから清めを求め続ける事を望んでおられます。英語で清い(ホーリー)と健康(ヘルス)という語は同じ語源です。健康とは病気のない状態を指します。清めとは罪のない状態で、清められている時は罪を犯しません。清めは霊的部分の健全な状態を表します。現在肉体が全く健康でも病気になり易いように、魂も不健全になり易いものです。霊的健康を保つ為には、常に神と交わる事が必要です。肉体は継続的な呼吸で命が保たれるように、清めを保つ為には霊的呼吸が必要です。それは週毎に礼拝をお献げし、日毎に祈り、神の御言葉に聴き従う事です。
 清めは詩編51篇のダビデの祈りの如くに、神の前に立ち自分の罪を知らされ、神に清めを求める所から始まります。求めるならば聖なる神が触れてくださり、その恵みの中に生きて行く時、神が清めてくださり成熟した信仰者と変えられていきます。滅びるばかりの私達ですが、「霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして」(23節)、家庭、職場等全ての生活の全領域に成熟が及んでいきます。自分の力によってではなく、私達の先を歩む聖なる神が成し遂げてくださる事に期待します。