9月12日礼拝説教概要

「真の礼拝に招かれる幸い」 詩編133編1~3節
                 ローマの信徒への手紙12章1~2節
 聖書には「神が生きて働いておられる」と繰り返し記されており、人生において今だけではなく永遠に働き続け、全てをお見通しで着実に御業をなしてくださる神が最も大切です。礼拝の場においても生きて働いておられると信じ、その神が愛と恵みの業で導いて下さり、罪赦され神の御業の為に用いられる真の礼拝は感謝な事です。真の礼拝は神の恵みに感謝し賛美して、心して御言葉に聞き、神の霊性が我が内に働くのですから、招かれている事がどんなに幸いな事かを確認できます。詩編133篇には皆が同じ方向を向いて、謙遜と慎みをもって一つ心となって祈りと礼拝を献げる光景が記されています。私達は礼拝毎に主の祈りを献げていますが「み心の天になる如く」と、本気で祈っているならその通りにしないと祝福はありません。謙遜、慎み、悔い改めをもって祈ったら真の礼拝がそこに成り立ち、聖霊の導きにより祝福されるのです。
 信仰に生きる者としての献身内容が記されています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ロマ12:1)生けにえとは、羊の肉を形なくなるまで燃やし切って神に献げます(レビ記)。自分は無、ゼロになって献身する事です。人生の全てを神に献げ神の言葉、十字架と復活が全てになるのが真の礼拝の姿です。神の恵みによって生きる勇気と喜びが与えられる故に、神の愛に応えて徹頭徹尾全ての全てを献げる事ができます。個人的な思いが強すぎ感情が残り、個人的な思いが遂げられないから人の考えを操作し、批判をし、傷つけるなら真の礼拝どころか教会は分裂します。「打ち砕かれ悔いる心」が神を喜ばれる事です。礼拝でキリストの言葉に聞き従うならば、頑固な思いから心を新たにさせて頂き、批判するレベルから敵を愛し祈る者に全く変えられ神の栄光の為に用いられていきます。我が国籍は天にありますからこの世と妥協してはいけません。この世で生きていますが、神の民に相応しく信仰に生きる者として、神のみ心が適う礼拝をお献げしましょう。