8月8日礼拝説教概要

「銀の杯」 創世記44章22~34節
 主イエスは、引き渡される夜、ゲツセマネで祈られた(マルコ14:36)。私たちが飲むべき「罪の報い」という杯を身代わりとなって飲んで下さった。主は想像を絶する苦い杯を従順に飲み干され、栄光に輝き、今や神の玉座の右に座しておられる(ヘブル12:2)。
 主は私たちに最も相応しい「飲むべき杯」をお与え下さる。患難だが最善であり、私たちに真の喜びを与え、主の栄光へと導く杯である。だから私たちは讃美歌285番3節で「主よ飲むべき我が杯、選び取りて授け賜え。喜びをも悲しみをも、満たし賜うままにぞ受けん」と主を賛美する。
 創世記44章には「銀の杯」が登場する。エジプトに7年間の大豊作と7年間の大飢饉が訪れ、エジプトの司政者ヨセフはカナンから食料調達に来た10人の男たちをスパイ容疑で投獄した。ヨセフの兄たちである。ヨセフは他人を装い、兄たちを厳しく試す(創世記42:14-20)と兄たちは苦難を知り、ヨセフに対する罪を悔いた。更にヨセフはシメオンを人質とし他の兄たちを試す。兄たちの運んだ食糧が底を尽くと父ヤコブはベニヤミンのエジプト行きを渋々認め、兄たちが末弟を連れてエジプトへ行くと、容疑は晴れシメオンも解放された。ヨセフ宅で宴会が始まり彼らは大いに飲み食いし、翌朝、彼らは食糧の詰まった袋をロバに積み、意気揚々と出発したが窃盗容疑で呼び止められる。ベニヤミンの袋からヨセフの「銀の杯」が発見されベニヤミンが捕まり、兄たちは彼を見捨てず一緒に引き返したが弁明できず、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と兄弟全員が奴隷になると申し出た(44:16)。ヨセフが彼らの申し出を断ると、ユダがベニヤミンの身代わりを申し出た(44:33)。年老いた父とベニヤミンのことだけをありのままに語り、自分のことを一切述べないユダの執り成しは本物で、ベニヤミンへの愛、父への愛、自己犠牲の愛が溢れ出た。神の与え給うた「銀の杯」は不当な理由で奴隷となる苦難の杯、かつてヨセフが味わった杯だが、ヤコブの息子たちを愛に満ちた清い者たちに変えさせた最善であり、真の喜びを与え、主の栄光へと導く杯であった。ユダの身代わりの申し出は主イエスの十字架を想起させ、真にこのユダの家系から主イエス・キリストは誕生するのである。ヤコブが味わった最愛の息子を失う「悲しみの杯」は、父なる神が独り子を失った時の悲しみを想起させ、私たち人間に神の痛みを僅かながら知らせてくれる。
 主がお与え下さる杯は私たちに最も相応しい「飲むべき杯」だが、ある方はそれを既に味わい、またある方は手に取ることさえ躊躇しておられる。しかし主イエスの極めて苦い杯を思えば私たちの杯はいかに甘露な杯であろうか。主は私たちを益々愛して、更に大いなる使命と喜びを与えんがために「子よ、おまえは私の与える杯を飲んでくれるか。」と問うておられる。主を信じ、主の下さる杯を喜んで頂戴する者へと変えていただこう。