7月18日礼拝説教概要

「今、この舞台を生きる」 創世記39章1~23節
 本日の箇所は波乱万丈の数奇な人生を生き抜く、ヨセフの確固たる信仰を証しています。ヨセフは主人の妻の誘惑に断固と闘ったが為に逆恨みされ、欺かれ陥れられる人生を歩まされました(12~20節)。これまでも兄達や複数の力によって陥れられるものでしたが、主が共におられる事を信じたからこそ悪意に反撃したり、投げ出す事もしませんでした。ヨセフの人生は「主がおられた」(2.3,21,23節)と簡潔に記されています。伝道者パウロは「…なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのか。むしろ奪われるままでいないのか。」(Ⅰコリ6:6)と、相手を攻撃せず騙されたままでいなさい、と語っています。ヨセフは主が共におられる人生を就き通した故に、人々の悪意からも全く自由でした。攻撃は不安の現れです。彼は神が共にいらしてくださる事を信じていましたから不安に陥りませんでした。
神が共におられるという事は
 ①あらゆる不公正に耐える力を与えられ
 ②縛り付けられていた状況から解放され
 ③悪い方向にころがっても復讐心によって支配されない
という事です。
主イエスの廻りにも多くの悪意がありましたが、それをも全て受け入れ、父なる神が共におられる事に委ね、救いの御業を達成されました。
 「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう・・」(詩編139:7~8)と、地獄のような状況にあったとしても神がおられないどん底はないと、信じる歩みが信仰者の歩みです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マルコ12:26~27)と、主イエスは言われます。私はあなたの現実を共に行き道を開く為に、この場に共にいるから今、この時を生きよ、と支えておられます。人生は幸せな大舞台が用意されているのではなく、今の試練のこの場があなたの生きる舞台なのだ、と言われます。本物の信仰とは試練の舞台を通って信仰が強くなるのではなく、試練を生き抜く中で救い主が共にいて下さる事を益々深く知り、置かれたその場で救い主を見出して感動し、感謝する事です。