7月4日礼拝説教概要
「人の手から神の御手に」 創世記37章12~36節
ヨセフは父親に溺愛されていた為に普段から兄達に妬まれていましたが、ヨセフが将来兄達を支配するという夢=神の啓示を見た事によって益々憎しみが募りヨセフを亡きものにしようとしました。兄達はヨセフの夢が真に神のご計画であったとしても、自分達の力と思惑によって、神の計画は曲げる事ができると考えたのでしょう。兄達は策略を練りましたが、最初から思いもよらないような方向に次々進み、遂には自分達の手の届かない方向へ発展していきました。
まず弟のルベン、ユダによって殺す計画は阻止され、ミディアン人の商人からイシュマエル人に売られエジプトに連れて行かれました。ヨセフの人生は、まるで人の手によって将棋の駒のように動かされ翻弄されるように見えます。しかし、廻りの人々の悪意や策略に操られたのではなく、神はそのような状況をも貫いて働かれ、又、それさえをも用いて道を開いてくださいました。人の思いが事を動かすのではなく神の摂理が全てを動かす事を示しています。主イエスの歩まれた受難の道を思い起こしても、人々の策略によって十字架に架けられたように見えますが、人間の死の滅びから永遠の命を与える為に成された神の摂理の中で主イエスはその道を歩まれ、大いなる救いの御業が起こりました。
順風の中、前進していると喜んでいる時よりも、困難な状況で前に進めないと悩んでいる時にこそ神の摂理が為されており、神の大きな御業が進んでいる時です。私達の人生は混沌の中で人々に引っ張られているのではなく、神が救いの糸で私達を手繰りよせてくださり、キリストを見出す事のできる場所に導いてくださっています。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの主によって存在し、私達もこの主によって存在しているのです。」(Ⅰコリ8:6~8)と、私達は神によって存在しているのですから、主権者なる神の御手に導かれながら歩む事に期待して、感謝し喜ぶのです。