6月6日 礼拝説教概要

「あとで分かる時が来る」 創世記37章1~11節
 これまでのテーマは「祝福」でしたが、ヨセフ物語は「人間の混乱と神の摂理」です。神は人間の様々な混乱した状況にも関わらず、それを貫いて神の大きな計画を進められる、という信仰が中心的なものです。
 ヨセフは父親ヤコブに溺愛され、日頃から兄達に憎まれていましたが、将来は、兄弟達・両親がヨセフに平伏す、という夢の話をしたので、益々恨みが募っていきました(1~10節)。聖書には夢がよく出てきますが、神の啓示を現すもの、又、古代人にとっては重要な事を示していると信じられていました。主イエスの父ヨセフも夢の中で、ヘロデが2歳以下の子供を暗殺しようとしている事を告げられたので、エジプトに逃れて産まれたばかりの主イエスは犠牲にならずに助け出されました。
 ここに登場するヨセフも、この夢は神が見せてくださった自分の生涯を示していると信じましたが、兄達は自分の感情が先立ち納得いかずに憎んだのです。しかし父親は「心に留めました」(11節)。この時理解した訳ではなく、何か意味があり必ず神の御心があると信じ、今、納得できなくとも後で分かる時が来ると、信仰によって心に留めたのです。御心があるとは、受け入れ難いような理不尽な事にもそこを貫いている神のご計画を求めていく事です。この後ヨセフの人生は奴隷に売られ、騙されたり不条理な人生を歩む事になりますが、彼を通して神の壮大な計画が進められていきます。主イエスも暗殺計画から助け出されましたが、神の怒りを受け十字架に架けられる、という理不尽な道を辿りましたが、そこに神の大きな救いがあった事を、人々は後で知る事になりました。
 私達の廻りにもこれは許せない・分からない・納得できない事がありますが「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。」(イザヤ55:8)と、ありますように自分の経験や感情で結論を出すのではなく、神の御心が何なのか求めていくのが信仰者の歩みです。意味のある道を今、歩んでいます。