1月31日 礼拝説教概要
「自分の井戸を掘る」 創世記26章15~25節
イサクは父アブラハムと同じように寄留者として他国に住み、そこでイサクは何度も井戸を掘り当てますが、横やりが入り邪魔されました(20~21節)。何か特別な理由がある訳ではなく根本的にあるのは敵意で、それらの事を通して色々な悲しみ、人間の中にある醜さを知りました。所謂人間の悲哀を味わったのですが、昔も今も変わらないものです。
人に理解されず敵意を表された時、平安を失い怒りに変わるものです。気が合う人・理解してくれる人と生きていけるなら幸いですが、むしろ無理解や逆境の中で忍耐を持って生きる事を通して人は育てられると、主イエスは種蒔きの譬で教えております。いくら良い地に落ちた良い種でも試練に遭うと身を引いてしまう人、耐え忍ぶ事なしに実を結ぶ事はできないと記されています(ルカ8:11~15)。忍耐とは正しい目的に向かってそれを獲得しよう、という希望と熱意の故に困難な事情を克服し自らの心を爆発から守る事だと言われています。芸術等の道は修業を積んだ分だけ身に付きますが、信仰の道は過去に何十年続けても、困難な時に信仰が破けたらそこまでの生涯は神から絶縁されてしまいます。
イサクは立ち止まって敵と争うのではなく、忍耐をもって自分の井戸を求めて掘り続けてついに神が与えてくださった祝福の広い場所に行き着きました(創26:22~25)。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と主イエスが語っておられるように、忍耐と我慢で終わるのではありません。試練の只中尚、前に向かって掘り続ける労苦の中で人は変えられていき、神の恵みの世界に到達します。その日に続く労苦を今、担っています。主イエスは裏切られ、ののしられ、十字架の死を強いられても息を引き取るまで私達への愛は変わりませんでした。この世の全ての敵意も悪意も太刀打ちできない主イエスの十字架が私達を守ってくださっています。この事を感謝し信じているから弱い私達は神が与えてくださった道で忍耐を持って自分の井戸を掘り続けていけるのです。