1月24日 礼拝説教概要
「どこに満足を求めるか」 創世記25章19~34節
イサクにエソウよヤコブの双子が与えられました。弟のヤコブが、神から特別な祝福が約束されていた長子の特権(レビ21:17)を兄のエソウから奪う出来事が記され、二人の生きる姿勢の違いを示しています。
エソウが疲れと空腹の中、野原から帰ってくるとヤコブが煮物をしており、空腹を満たす為に大切な長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。「怠け者は自分の欲望によって殺される」(箴言21:25)と記されているように、他人の欲望によって自分が滅ぼされるのではなく、自分を殺すのは自分の欲望からです。欲望に負けるという事は神から離れるという事で、あらゆる事から神に背を向ける事になります。エソウは目の前にある今の欲望を満たす生き方を選びました。そのような歩みはせっかく用意された神からの祝福の人生の中身を失ってしまいます。
それに対してヤコブは神からの祝福の中で生きる事だけを求めました。祝福とは神そのものの命の満ち溢れた特別な中に生きる事です。そこには目に見えて何か得な事がある訳ではなく、途方に暮れるような事があったとしても、神の憐れみと特別の眼差しの中に自分の命があり、永遠の命に至る道に繋がって生きていける事が保障されています。
しかし弱い私達はエサウのように様々な誘惑があります。誘惑に打ち勝つには自分を守る生き方ではなく、絶えず神を求めつつ前進して行く事で、常にビジョンを求める事だと聖書は語っています。「幻がなければ民は堕落する」(箴言29:18)とありますが、ビジョンとは将来の計画ではなく神からの御言葉です。神の御声を聞かない時「民はほしいままに(欲のままに)振舞う」と別の訳では記されており、神の御声に耳を塞ぐ結果は自分の欲望に従って生きる事になります。主イエスも40日間の断食の空腹の後、誘惑を受けましたが毅然と神の御言葉によって勝利しました。神の御言葉は私達を制限するものではなく、守ってくださる祝福の命の御言葉です。御声を聞きつつ常に祝福を求めて参りましょう。