1月17日 礼拝説教概要
「主の山に備えあり」 創世記22章1~19節
神から与えられた信仰の道をアブラハムがいよいよ踏み出そうとした時の出来事が記されています。彼は神の命令に唯黙って服従し、神への献げものとして大切な独り子イサクを連れてモリヤの山に登って行きました。この非情な残酷と思える命令に対して「礼拝をしてまた戻ってくる」(4節)と言いました。礼拝をお献げする所は決して絶望的な状況で終わるのではなく、人間の思いを遥かに超える神が出発点となり新しい事が始まる場です。神を礼拝しながらアブラハムは自分の将来の道は「きっと神が備えてくださる」(8節)と、確信を得たと思われます。
神はアブラハムの息子を求めましたが、それは彼の生涯・未来を要求されたと同じ事です。自分の将来は自分で握りしめて得るのではなく、大切なものを神に献げながら神が備えられた道を受け取って歩むものです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え主は奪う」(ヨブ1:21)と、生きるも死ぬも私達の命は神が司っておられますから無条件に服従できる筈ですが、「分かっている。でも」と、過去の栄光・自分の感情に繋がれているものを断ち切る事ができずに言い訳をしがちな私達です。しかし主なる神への服従はこの出発点がどうしても必要です。アブラハムは「刃物をとり」(10節)肉の繋がりを断つ決断をした時「主の山に備えあり」(14節)を経験させて頂きました。痛みや犠牲を伴なう先には必ず神が備えてくださった未来が用意されています。
私達の未来は人それぞれ様々です。しかし誰にでも平等に備えられた主の山は天の国です。その山に登る為にも今、握りしめている大切なものを神にお献げた時、その約束は確かなものとなります。この世で自分が集めたものを手放してもキリストの十字架だけは残ります。これしか永遠の天国の保証はありません。この保証さえあれば私達は何も握りしめる必要はないのです。この道の向こうに主の山が備えられている事に心から感謝できる私達とさせて頂きましょう。