12月6日 礼拝説教概要
「灯をもって待つ」マタイによる福音書25章1~13節
おとめが夜の暗闇の中で灯をもってひたすら花婿を待っている譬え話しです。この祝宴は天国の宴に招かれている事を示しており、賢い5人のおとめと愚かな5人のおとめの姿から主イエスがいつ来られるかわからないという事と同時に、個人にとっても決定的な事、例えば死が突然やってくるという事をも意味しており、決定的な時にいかに私達は備えるべきか、という事を示しています。
愚かなおとめ達は既に神から祝宴に招かれている、という現状に安住し、やがての時の備えをしていませんでした(3節)。「油の用意をしていなかった」とありますがこれは信仰を意味しています。信仰は常に求め続けないとやがては後退していくもので、いざという時残酷に見えますが、愚かなおとめ達のように準備していなかった為に賢いおとめに油を貸してほしいと願っても断られ、祝宴の席に入る事が出来ずに戸を閉められてしまいます(10~13節)。ダビデが巨人ゴリアトと戦う時、サウルの装束を借りましたが、結局役に立たず自分の杖で敵を倒した事に象徴されているように、信仰とは人から借りるものでも与えられるものでもありません。神対自分との関係でいつも「目をさまして」求めていなければなりません(13節)。「あなたたちが待望している主は突如、その聖所にこられる」と旧約聖書最後のマラキ書に記されていますが、その後400年間神は沈黙されていました。イスラエルの民は様々な帝国の植民地となり2度と立ち上がれない程痛めつけられ暗黒の中にありましたが、神はその民を決して忘れる事はありませんでした。ザカリアとエリサベトの元に現れ「昔から聖なる預言者達の口を通して語られた通りに・・・覚えていてくださる。」と闇の中に至る希望の命の道が開かれた事をザカリヤは賛美しています(ルカ1章)。それは私達をも覚えていてくださるという事です。キリストにある私達は諦めずに暗闇から光を待つ限り、やがてくる備えられた救いの喜び・恵みの力で守られ輝けるのです。