11月15日 礼拝説教概要

「嘆きを踊りに」詩編30 1~11
⑴人生には「パラドクス」、「逆説」があります。重度の知的障害と自閉症をもって生まれたわが子を通して、本当の幸せとは、自分の思い通りに物事が運ぶのではなく、自分のような小さな者さえも神は愛していてくださり、自分を通して神の素晴らしいご計画が進み、それに従っていくところに神の祝福があることを教えられた、との証をしておられた牧師がおられました。詩編30篇を通して教えられるポイントは、祝福は贖い主なる主と向き合う者に与えられるということです。
⑵ダビデは命を回復させてくださった主に讃美をささげます。「わたしを引き上げてくださいました。」(2)との言葉は、「水を吸い上げるように救ってくださった」との意味があります。どこからかと言うと、「陰府」、「墓穴」という言葉が続きます。それぞれ「死」を象徴する言葉ですが、そのような危機的状況から主は救ってくださった、と感謝をささげているのです。窮地から救われたダビデが見出した幸いは、主の慈しみに生きる点にありました。けれども彼はその罪の故に厳しい罰を主より受けましたが、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの朝を迎えさせてくださる」(6)と告白します。信仰と福音の原点は、「泣きながら過ごす夜」です。すなわち、己が罪に泣くことなくして、喜びの朝を向かえることはできません。
⑶私たちは何も問題がないと思える時、「わたしはとこしえに揺らぐことはない」と、信仰に生きていると思いがちです。しかし、そのように思っていたが実は不信仰であったと、ダビデは告白するのです。むしろ、驕り高ぶっていた自分に気付かされ、「主よ、わたしの助けになってください」と祈りをささげているように、ダビデは主のみを救いとする信仰者へと変えられていきました。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(12)と、ほめ歌をささげます。
「粗布」は、悲しみ、嘆き、悔い改めを象徴するものですが、喜びを帯とする者に変えられた喜びを告白します。ヴィクトル・ユーゴーの作品「ああ、無情」で出て来る罪人ジャン・ヴァルジャンは司教によって罪赦され、善を行う人間に変えられていきました。その司教は彼に対して、「あなたは神のものです。わたしはあなたの魂を神のために買い取ったのです。」と語ります。ここに贖罪信仰があります。