8月9日 礼拝説教概要
「健全な言葉」 テトス1:1~15
⑴パウロはクレタの教会の人々を「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。」(1:16)と、実に手厳しい内容の手紙を書き送っています。当時のクレタの教会の組織はがたがた、教会員の生活は乱れ、年老いた男は不謹慎で、年老いた女は大酒の飲みで噂話に明け暮れ、若い女も怠け者で身持ちが悪いといった最悪の状態にありました。すなわち福音に生きているようでありながら、神の御心からは程遠い恥辱的な生活をしていた彼らの生活を憂いた内容の手紙となっております。そのような彼らに対してパウロは「健全な言葉を語りなさい」(1)と勧めます。
高齢者になってわがままになるタイプがあります。残された時間が余りないという焦りから来るのでしょうか。自己中心性、強引性の拍車がかかりつつも、そのような自分の姿に気付いていない人もおります。信仰者はむしろ逆です。主の御前に立つ日が近ければ近いほど、自己反省し、その生き様が変えられ、信仰の勝利をもって締め括るべきです。
焦りはどうして出て来るのでしょうか。それはこの世という尺度しか持っていないからです。けれども信仰者の尺度は、かの世につながるものです。
二千年のキリスト教会の歴史を振り返るならば、「神の御名」、「信仰の名」の下に罪を犯し続けてきた歴史でもあります。このことは一部の心無い人々、不信仰な人々だけの問題ではありません。私達自身の問題でもあります。何故ならば人は皆カインの末裔であるからです。
⑵パウロは信仰の根幹である主イエスが何故、御自身を献げられたかということに触れます。要点は二つあります。一つは「あらゆる不法から贖い出す」という神の御業であったこと。第二に「良い行いに熱心な民を御自身のために清めるため」であったと記します。
白洋舎の創業者、五十嵐健治さんは、波乱万丈の生涯を送られた方ですが、彼の生涯を「夕あり朝あり」という作品にした三浦綾子さんはあとがきで、こう記しておられました。晩年、五十嵐さんは訪ねて来た人の名前を忘れることがあったそうですが、「何もかも忘れましたが、キリストさまだけのことは、忘れてはおりません」と語られた逸話を紹介し、「この一言に五十嵐さんの信仰の純粋性を見るような気がする」と結んでおられました。キリストだけは残る者でありたい。