6月28日 礼拝説教概要
再臨 「イエス様がおいでになる時」 ペトロ第二3章1~14節
毎週の礼拝毎に「教会は公の礼拝を守り…主の再び来りたまうを待ち望む」と日本基督教団信仰告白をしています。教会は主イエスが再びこの世においでになる事を待ち望む群れであると言えますが、心から待ち望んでいるでしょうか。
この世の事に時を費やし今の生活が全てになり、キリストがおいでになる事を待ち望まなくなっている現状のようです。しかし主の再臨は「盗人のようにやって来る」(10節)とあるように、いつ起きるかわからない再臨の時に裁かれないように準備が必要です。
旧約の時代、ノア一族以外は不信仰により、洪水によって滅ぼされ.た事実を忘れてはなりません。今度は水ではなく火によって減ぼされる、と警告しています(7節)。しかし神は減ぴを目的としておられるのではなく、全ての人がキリストを信じて救われる事を願い忍耐して、世の終わりを伸ぱしておられます(9節)。神の救いが完成され、人の罪による混乱が全く克服される事を待ち望んでおられます(13節)。これが本来あるぺきこの世の姿です。
当時の伝道者パウロも再臨は近い、と信じていましたが現代も成就されていません。神のもとには一日は千年のようで、千年は一日のようですから(8節)、時も思いも生活も神の標準に合わせなければならず、具体的にきよい生活を送る事が求められています。(11節)。主イエスを信じて救いに与ったら、きよめられてそれに相応しく励む事ができるように整えられています。「神が前もって準傭してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その良い業を行って歩むのです」(エフェソ2:10)。
善い業ができる為に私達は救われています。ですから罪の贖い主である主イエスと結ばれた人は、まっすぐにこの世の雑事を突き抜けて、再臨の準備をして行く事ができます。
信仰に生きるとは、悔い改めた時に神がきよめてくださり、それによって主イエスの前に立つ事ができるという確信を持つ事です。弱い私達を強めてくださる神の業によって、再臨をお迎えする事を喜びとしたいものです